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晴屋の青い扉 その56  正しい消費者の作られ方

晴屋の青い扉 その56  正しい消費者の作られ方
世の中は生産者と消費者に区分けされている。
使うことによって、作るものを育て、それによって自分も成長していく
相互の関係があれば、その区分は必ずしも必要ではないが、遥かに
離れたところにいる顔の見えない他人の作ったもの、見ず知らずの
人が使うもの、という関係では生産者と消費者は明らかに分断されて
いる。
たくさん作っていっぱい売れれば、生産者として能率がよく、大きな利
益をえられるかもしれない。
一度に大量に作った製品は均質で、一般的で、外れがないかもしれ
ないし、価格が安いので消費者に便利かもしれない。
人間には「欲」があって、これがもう少しなんとかなればいいのだけれ
どと思い、やってみたくなる。
しかし、それが得られたときには、前のものは失われるということを忘
れてしまう。
かつてあった、地域に根ざした個性的な暮らし方は失われてしまった。
すべてのことは、欲求に訴えてわたしたちの心に浸透し、誰もが生まれ
ながら持っていた純真さを失って、大人の消費者になっていく。
純真無垢に生まれてきた赤ちゃんは、一人では生きられないので親
の注意を集め泣いて要求を伝えようとする。
親が思うとおりに要求を満たしてくれると安らかに寝る。
しかし満たされなければいつまでも泣き、満たされる快感をえられない
まま、とにかく泣いて注意を集めようとする。
外界の新しいものへの興味と創造への一歩がさまたげられ、他者への
信頼も育たず、自分の欲求を果たすためだけのものとして世界を認識
するようになる。
そのまま大人になれば、欲求に過敏に反応して、余分に大きな声と
過大な要求をするようになるが、決して満足をすることができず、つぎ
つぎに欲求を続ける、万年欲求不満の状態になる。
何にでも文句をつけ、自己の立場と権利を主張し、無視されれば過敏
に反応するプライドの高い人は多くいる。
その多くは幼少期の心の傷に由来している。
意識でなく無意識にできた傷は、意識で変えようとしても直すことは
できない。
自分の要求でなく、与えられた欲求を満たしていく、優良な社会の歯
車であり、強く、正しい消費者が生まれる。
イバン・イリイチは当初、学校教育が従順な消費者を作ると言った。
学校のいくつかの機能を説明している。
まず知識を学べるのは学校だけでここで教えることは全て正しいと教
える。
新しい知識を得るためには学校に通い続けなければならないと納得
させる。
さらに上の教育があると示した上で、そこに到達できるのは限られた小
数だと理解させる。
そこにいけないのは、個人としての努力や素質が足りないからだと分
からせ、ごく一部のエリートと圧倒的多数の自分でものごとを判断しない
消費者がうまれる。
創意工夫する楽しさでなく、従順に言われたことを記憶する、テレビに
依存する消費者たちだ。
イリイチはさらに病院が病人を作ると言った。
医師が死を認定する権利を持った時から、生を司るのは医師の仕事
になり、病院に通わなければ健康でいられないと感じる人が現れた。

病気や怪我には必然性があるけれど、それを無視して病状だけを回復
させようとすれば、人間全体としてバランスが失われる。
苦しむこと、じっと耐えること、心と身体をひたすらに休める時期は、
人間に必要不可欠な大事な時間と経過だ。
それを忘れ、生きる感覚を他人まかせにする圧倒的多数の医療の消
費者が生まれる。
イリイチはこれらを指摘すれば世のシステムは変わっていくと期待した
が、残念ながらそれははずれた。
イリイチが提唱した必ずしも学校に通わないでも真実は学べるとした
「脱学校」は世界を一つの教室としてとらえる大きな動きにのみこまれ、
自分で自分の生き方、苦しみ方を選択しようとよびかけた「セルフケ
ア」は病院の中での自助努力にすりかえられた。
イリイチが考えたのよりずっと早く、深くテレビの影響はわたしたちに
浸透した。
電源が入りっぱなしのテレビのブラウン管からは、刺激的で扇情的な
画像が垂れ流されている。
「場違いな具体性。挑発的な官能性。視点の強制。」などという言葉
でイリイチは映像の世界を表現している。
子守代わりのつけっ放しのテレビ映像に浸り、外で遊ぶよりテレビゲ
ームに楽しみを見いだす子どもたちは、そこからくるものを当然のもの
として疑いをもたない。
「原子化」と「他人志向」はますます強まり、個を主張するけれど、流行
や格好の良さを追い、他人から「可愛いい」と思われることが良いことの
基準となる。
どこかで見かけたようなファッションに身を包んだ若者が街にあふれ、
次々にダイエット法や健康法が宣伝され関連商品が売れていく。
こうして思い上がり、勘違いした正しい消費者がますます増えていく。
なぜ正しいかというと、こうした消費者は、自分でものを考えないので、
与えられた欲求の中での選択をするため、システムに取り入れやすく、
そのシステムを疑った新しい動きも作ろうとはしないからだ。
システムを動かす人たちにとって、とても都合のいい存在であり、前回
書いた見せかけの「民主主義」を疑わずその中で安穏と生きる人たちだ。
正しい教育と、正しい医療と、正しいテレビの情報が正しい消費者を
作る。
まったく見事というしかない。
それでもへそ曲がりは世の中にいる。
晴屋は世の片隅にいて「マイペース」と言われ、お客さんたちもしっか
り自分の好みをもっている人が多い。
けれど、大なり、小なりわたしたちのなかにも消費者はいる。
わたしたちに選択の余地はどれほどあるのだろうか。

晴屋の青い扉 その55 民主主義の旅

よく不思議に思うのは、周囲には原発推進派など一人もいないし、
今の世の中のシステムをいいと思っている人など見たこともないし、
根っからの悪人だなと思う人もまず見かけないのに、世の中はちっとも
いい方向に向かっていないことだ。
みんなが願い、意思を表明すれば社会は変わるというのが民主主義
なのだから、もうとっくに理想的な世界がやってきてもよさそうなもの
なのに、何故かそうならない。
むしろ悪くなる一方で、民主主義なんていうものは形だけで大衆主
義とか、衆愚主義とかそんな言葉の方が現実にあっているような気
さえする。
私が記憶している「民主主義」は、革命期のフランスで市民が自由と
自治を要求して命をかけて獲得した、人間の理想、自由と平等を追
求したものだったはずだ。
それが何故か形ばかりになり、見せかけのコンビニで商品を選択する
程度の自由と、責任を負わないわがままばかりが横行するようになっ
てしまっている。
携帯電話もまともに操作できない古い人間の私だが、最近は電子
辞書などというものを手に入れ、運転の合間とか、ふと気がついた時
に言葉を調べるのがクセになっている。
この辞書には広辞苑だけでなくブリタニカの百科事典も入っている。
「民主主義」を調べてみた。
「・・・語源はデモス(人民)とクラティア(権力)とを結びつけたギリシャ語
のデモクラティアで人民が権力を握り、みずからそれを行使する政治
を意味した。したがってそれは君主政治や貴族政治と並び支配形態
の一つである「多数者の支配」をさす。民主主義は、古代においては
愚民政治ないし暴民政治を意味するものとして、しばしば嫌悪され、
望ましい政治形態として受け入れられるようにいたったのは近代にお
いてである。・・・・」
古代のギリシャでは少数の市民を多数の奴隷が支えていた。
そんな社会を私たちは理想とすることはできない。
素晴らしい文明があったとしも、そこにはユートピアはなかった。
「・・・民主主義が真に確固とした市民権をえるのは第一次世界大戦後
のことである。この大戦において連合国側は「民主主義の安全な世界
をつくる」ことを戦争目的として揚げ、戦後はこの宣言に応じて民主主義
の大波が全世界をおおうことになった。しかし民主主義はソビエト型
民主主義と北欧型福祉国家の挑戦という新たな問題に直面した。元来
民主主義は自由、平等の理念に立つものであるが、近代民主主義は
リベラル・デモクラシーとして発展し、平等については形式的平等の実
現にとどまっていた。ソビエト型民主主義と福祉国家理念は、特にこ
の点を突いたのである。・・・」
崇高な理想と、多くの血と努力とによって実現した民主主義だが、現
実には多くの矛盾を抱えていた。
ブリタニカにはさらに「マス・デモクラシー」についての解説があった。
これは私には少なからず衝撃的だった。
「20世紀の民主主義の拡大は普通選挙制の実施による大衆の議会
政治への大量参加として始った。しかしその拡大は民主主義の形骸
化をもたらした。その理由としては市民社会から大衆社会への転換
という問題が考えられる。資本主義の発展は、社会的分業と都市化を
発展させ、社会生活を複雑、多様なものにした。この結果社会生活の
中で諸個人は孤立すると同時に相互依存を強めるようになった。こうし
てリースマンのいう原子化した膨大な量の「孤独な群集」が登場すると
ともに「他人指向型」の人格が出現するにいたった。また社会生活の
複雑、多様化は、一方で無力感を醸成すると同時に、他方でそれまで
自立的な個人の生活の中で解消されていた非合理的感情を社会に
向かって奔流させることになった。こうした大衆社会状況は、政治の
あり方を変え、民主主義の制度を変容させた。」
民主主義が人間の自由と平等を保証するためのものでなく、画一化
され、分断され、極めて限定された中での選択だけが許されていると
いう現状は、すでにアカデミックな世界や実際の政治の中では常識
として定着していたのか。
多くの人が標榜する民主主義はすでにただの幻想か。
それとも現状の維持を望む人たちに口実を与える方便なのか。
私たちは国民や社会人として他に何か共通の理念を持ちえるのか。
自分の今までの不勉強を恥じるとともに、目の前の突然の巨大な渦
に、一人の人間としては見渡すことさえ不可能な混沌とした渦に直面
したような気がして、めまいを感じた。
私は確かに今まで、この世の中の状況はおかしいと思い、違う生き方
があるはずだと信じ、それを実現しようとこの八百屋を続けてきた。
かなり徹底した個人主義者に生まれついた私は、自分にふりかかる
問題を社会のせいでなく、個人の課題として解決しようと努めた。
整体で自らの身体と向き合い、なるべく医療には頼らず、テレビの画面
を信用せずに自分が直接感じたことと区別した。
世の中でいいといわれていること、権威で保証されていることも鵜呑み
にせず、自分で検証し組み立てし直すまでは決して納得しなかった。
反社会というより、非社会的に生きてきたと思っていたのに、結局社会
全体がかかえる問題と同じ根にぶつかってしまった。
けれど、原発も含めてあまりにも遠大な人間全てにのしかかるテーマ
と向き合っていると自覚して、非力を自覚せざるをえない。
険しい道を登りきったら、突然に見晴らしのよい場所にでたけれど、
周りは断崖と絶壁で、次の一歩の足の置き場がみつからない。
少なくとも私たちの自由を保障してくれる民主主義などというものはす
でになく、自由は私たち自身で獲得していかなければ得られないこ
とは確かだ。
ゴルフやリゾートや高級車など優越的なものを使える、世に保証され
差別化された自由でなく、それほど多くのものでなくとも、静かに心を
みたすひそやかな喜びと自由をえるにはどうしたらいいか。
道のりは、はるか遠い。

生活に溶け込む音楽とオーディオ

音楽とは不思議なもので、上手く楽器を操って音を出せれば音楽
を楽しめるかという、かならずしもそういうものではないらしく、それはも
う必死で演奏に取り組んでいます。
よっぽどの天才か、年を経て経験を積み、ゆとりと緊張感を両立でき
るようになるまでは、どちらかといえば、苦しみの方が大きいのでは
ないでしょうか。
もちろんその苦しさには意味があって、それがなければ生きている
意味がないともいえるでしょう。
けれど、他に自分の課題をかかえている人たちにとっては、音楽は
かけがえのない喜びの源であり、この上もない楽しみの時でもあり
ます。
他人が必死になっているものを聴いて楽しむというのも考えてみ
れば変な話なのですが、そこに生きるということの綾があるように
も思います。
そんな私たちにとっては、オーディオ装置、いわゆるステレオは重
要なアイテムであり、演奏家にとっての楽器と同じに、音楽と一体に
なって至福を味わうための欠かせないものです。
ただいい音で音楽に入り込みやすいというだけにとどまらず、音楽
を受け取る姿勢や自分の内面と向かい合う感性の扉を開き、聴く
人の精神を形に表現したものともいえます。
だからとても大事なものだと私は思っているのです。
粗末な音を聴いてると粗末な人になるとまでは思いませんし、高
価な装置を持っているから立派な人だとも思いませんが、できる範
囲で音の質を高めようとする努力が自分の感性を磨き、新しい世
界を見る大事な鍵になっていきます。
いわゆるオーディオマニアたちの中には、機関車や雷の音をどれ
だけ生に近く再生できるかに血道をあげている人もいます。
道具としてオーディオ装置を考えれば、それもひとつの立場でしょ
う。
しかしそれでは、技術ばかり追求した音楽と同じで、機械的な完全
さや正確さが重んじられ、人間の感覚の精妙さが見落とされてい
きます。
私たちは演奏者の出す音の微妙なニュアンスに反応して、その人
の感じていることや作曲者の思いいれを感じます。
出ている音階が同じでも、演奏する人によって、感じるものがまった
くちがいます。
それと同じに、ステレオの音の違いも、私たちは大きく感じます。
ただ一般に音のいいステレオというのは、大きくて威圧的な音で有
無を言わせないような暴力的な音が多いようです。
オーディオマニアに無理に聴かされる音はそうした傾向が多くあり
ます。
しかし、コンサート会場で聴く音はアコースティクな楽器の音はどん
なに大きくてもうるさくありません。
音に張りがあるのにやわらかく、私たちを包み込みながら風のよ
うに流れていきます。
オーディオ装置で、完璧にそこまでいくのは不可能ですが、大き
な音量を求めなければ、やわらかな表情は再現できます。
場合によっては、演奏会場では感じられないような微妙なニュア
ンスを感じることができます。
私たちが求めているのはそうした、完全な生の音ではないけれ
どかなり肉薄して音を聴く楽しみには十分で、しかも自分の気分
や体調、気候や疲れに合わせ、日常の空間の中で楽しめたり、
癒してくれたり、あるいは鼓舞されたりするような、自分の内部の
ひそやかな部分に届く精妙な音の楽しみです。
それを伝えるために小型の「愉音」と名づけた小型のシステムを
提案し、50セット以上提供してきました。
いまだに「欲しい」と言って下さるかたがいらっしゃいますが、時間
と体力の関係でもう受注することができません。
ただ私も、できることがあるのに、黙っていることができないタイプ
の人間なので、別の形でより進化したものを提出してみようと思
いたちました。
価格は以前の「愉音」が2~3万円だったのにたいして、今度のは
13万円前後になります。
大きさも普通のコンポサイズで、より本格的な音の再生を前提に
しています。
枉駕で開いてる「旬の音楽と料理の会」で使っているものに近いも
のですが、よりパーソナルに楽しめる大きさと音になります。
東久留米の店では日常的に音が出ていますので、興味のある方は
聴いてみてください。
自分が楽しみたいときに好きな音楽を聴く。
これ以上の贅沢な楽しみは他にないでしょう。
演奏者の都合や体調につき合わされず、周囲の人間にも気を使わ
ないで、じっくり音楽に浸ることができます。
その時の気分や気候の変動によっての体調や感受性の変化に合
わせて積極的に音楽を選び、単に楽しむだけでなく、自分の暮ら
し方をプロデュースすることもできます。
店で仕事をしながら音楽を聴くことが多い私ですが、オーディオ暦
も40年を超えそれなりに経験を積んできました。
これなら多くの人に充分な満足を感じてもらえるだろうし、価格も性
能の割にはどうしようもないほどには高価でないオーディオ装置を
ご紹介したいと思います。
その人の個性や必要性に応じて内容は変わりますが、基本のシス
テムはCDプレーヤーとスピーカーとアンプからなっていて、総額は
13万5千円です。
スピーカーのみは中古の製品をオークションで手に入れて、それ
に手を加えてお渡しします。
現行のオーディオ製品は、コストダウンのために粗末な材料を使っ
たものが多いようです。
また以前のように大量には売れないので、量産効果も期待できない
ので、安くてもメーカーの意気込みが感じられるような個性的な製
品もみあたらなくなってしまいました。
それでスピーカーはオンキョーの15年ほど前の製品、D-202Aシリ
ーズから選んでいます。
このスピーカーは相当に優秀です。
音楽に一番大切な中音が充実していて、音に存在感があるのに妙
なうるささがありません。
今売っているスピーカーのほとんどが、低音と高音を強調させて
メリハリをつけ、安っぽく下品な音がするものばかりです。
聴く人の感性を馬鹿にしているのではないかと思ってしまいます。
ゆったりと音に親しんだり、微妙なニュアンスの合間に新しい発見が
あるような、音の世界にこちらが入り込んでいきたくなるようなものが
ほとんど見当たりません。
このD-202Aシリーズは、オンキョーの長年のスピーカー作りの技術
の集大成のような製品です。
小型ですがずっしりと重く素材を惜しまずに使う姿勢がうかがえます。
16cmウーハーの2wayスピーカーですが、ウーハーというよりはフル
レンジ(1個のスピーカーで低音から高音まで全て出す)に近い動作
で、音の自然なつながりを実現しています。
高音には絹を使った質のよいソフトドームのユニットを使い、刺激的
でない爽やかで自然な表情を聴かせてくれます。
また、自然素材であるホヤのセルロースを利用して、音の芯の強さ
と落ち着き、微細な表現力を持たせています。
今これを作ったら10万円ではとても無理でしょう。
それがオークションでなら1万円ほどで入手できます。
ただしエッジは経年変化でだめになって、張替えが必要です。
内部も吸音材の交換や電磁波対策をすることで、音のこもりが減り
より素性のよさを楽しむことができるようになります。
改造費込みで2万円を設定価格にしています。
CDプレーヤーは全体のバランスの中では不釣合いなほど高性能
で、コストの割合も高くなっています。
何より音の入り口がよくなければ、いい音は望めません。
内容的には100万円のCDプレーヤーより優秀で音も上回っている
製品です。
基本の製品はパイオニアの25連装(25枚のCDが入りリモコンで自由に
選べる)のPD-F25Aというものです。
カラオケにも使われているメカなので、耐久性と信頼性は抜群です。
内蔵するDAコンバーターは1ビット式で、素直で伸びやかな音が特
徴です。
このCDプレーヤーの素性のよさに着目し改造したのはFIDELIXという
メーカーの中川さんです。
中川さんはSONYで高級アンプの設計に携わった後、STAXというコ
ンデンサー・スピーカーで世界的に有名なメーカーで、大企業には
できない斬新なアンプを開発しました。
そのDCアンプは超高級品を作るメーカーがリファレンスに使うような
優れたものでした。
そして独立してFIDELIXを作り、手作りの高級アンプを提供していた、
マニアの間では有名な人です。
その中川さんがこのCDプレーヤーの改造をしたのはまずクロックとい
れる部分の交換です。
クロックは人間で言えば心臓にあたります。
これがちゃんと動作していないと、音が不安定で浮ついたものになり
ます。
通常はジッターという雑音成分が多く発生していて、それが音に混
入しているので、一般的にCDの音はうるさく、落ち着いて聞けないも
のが多いのです。
また電源は人間で言えば足回りになりますが、電流供給するダイオー
ドにショットキーバリア型に交換して、パワフルでノイズの少ない音に
貢献しています。
クロックは、回路技術者としては世界でも有数の中川さんが設計し、
製作したものです。
クロック交換を他に依頼すると、これほど優秀でないものを使って、
5~10万円位請求されます。
新バージョンはオペアンプという主要部品のグレードアップで、音質が
さらに細やかになりました。
しっとりと潤いまで感じられるより生の音に近いものです。
この製品では交換済みのものが6万5千円という手の届く価格になって
います。
さらに晴屋で電磁波対策と振動対策を加えることで、音により落ち着
きのある表情が感じられるようになっています。
CDの音にどうしても満足できない人、LPの音に近い自然でふくよか
で奥行きのある音を望む人たちにぜひおすすめしたいCDプレーヤー
です。
私は昔から、アンプが好きでした。
もちろんスピーカーやカートリッジも好きですから、ステレオが好きという
こともあるのですが、アンプには特に愛着を感じます。
それは多分に、私にとってはブラックボックスで、中がよくわからないか
ら、神秘性を感じて惹かれているのかもしれません。
カートリッジは磁石とコイルで出来ていて、どちらかが動くことで発電し
電気信号をアンプに伝えます。
反対にスピーカーは、アンプが増輻した信号で磁石に隣接したコイ
ルを動かしそれに付いているコーンという振動板から音を出します。
数十年変わらない、感覚的にもわかりやすい世界です。
だからアンプは個性を持たずに、入ってきた信号をそのまま大きくす
ればいいのですが、それが意外に難しく、質が変わったり、個性を持っ
たりします。
部品の違いや回路の良し悪し、それだけではない様々な不思議な要
素で音が変わります。
それが機械的でなく、なんとも面白いのです。
ちなみに私は黒いメカニックな雰囲気のものはだめで、つまみが少なく
シンプルで繊細な雰囲気を持ち、音は緻密で切れ味があってしかも
うるさくない上品なものが好みです。
こういう好みは多くの人は、食べ物や異性や文学的な嗜好や生活観と
も共通しているようで非常に興味深いものがあります。
さて今回この組み合わせにおすすめしようと思うのは、2機種あります。
一つはオーディオ用としては入門的な扱いのアンプなのですが、昔
から定評のある少し小型のアンプでDENONのPMA390SEです。
私も初代のPMA390を使っていました。
小ぶりでも素直でしっかりした音調でかなり気にいっていました。
これはそれから数代後のかなり改良を加えた製品です。
音は初代に比べて、よりクッキリと力強いものになっています。
放送局で使っているカートリッジにDENONのDL-103という有名な製
品がありますが、それを思わせる厚みと輝きのある音です。
多くの人に受け入れられるのも分かります。
定価は45150円ですが、晴屋の設定価格は35000円になってい
ます。
もう一機種は、私の自宅や枉駕のホールでも使っているものです。
ONKYOのA-1Eという製品です。
十年以上前の製品で、今は当然作られていません。
ですからオークションで中古の製品を手に入れるしかありません。
保障も付きません。
それで第一候補にはできないでいます。
薄型でつまみが少なく瀟洒な雰囲気、中身ははぐっと詰まっています。
とても大きなメーカーが作ったとは思えないような、量産やコストを度
外視した贅沢なつくりです。
ONKYOの長年の技術を集大成するとともに、通常マニアが自分の
ためだけに組み立てるとき使うような高精度の測定機用の部品などを
使った、手作りの製品です。
オーディオ産業が衰退しかけた時、最後の最後に技術者がやりたいこ
と、やれるだけのことの全てを注ぎこんだ製品のような気がします。
音はリアルなのに穏やか。
うるさい音は全く出ませんが、細やかな表情まで全て感じることができ
ます。
その当時の定価は18万円でしたが今作ったら50万円ではとても無理で
しょう。
そんな製品がオークションでなら、5万円以下で買えます。
私には奇跡的なこととしか思えません。
保障が無いため故障の可能性がゼロではありませんし、ガリボリュー
ムの心配もあります。
しかし私の知っている数人のユーザーで問題は起こっていませんし、
ONKYOはサービスの体制がしっかりしているので、ケアはいくらでも
出来ます。
個人的な音楽の楽しみの強力なアイテムとしてぜひおすすめした
い製品です。
晴屋では内部に電磁波対策をしてよりクリアな音にしてお渡しします。
このシステムにはコストの都合で使えませんが、私のもう一つのアン
プもご紹介します。
前述のCDプレーヤーを製作したFIDELIX の中川さんによるもので、
CERENATEという名の小型のアンプです。
つまみも電源とボリュームの二つしかありません。
価格も定価147000円(晴屋価格14万円)と他と比べれば高価でか
すが、内容は一段と濃く、驚くほどのリアリズムを感じさせます。
他の装置の欠点や録音のあらまでもあばき出します。
音楽を楽しむと言うより、音に向かいあい厳しく見つめるためのアンプ
といえます。
オーディオ派にも、音楽派でも、超マニア向けのアンプです。
こういうものも世の中にはあります。
このシステムにおすすめのケーブルについてもお伝えします。
ケーブルは信号を伝えればいいのですから、音質に違いが出ては
困ります。
しかし実際その差は大きく、アンプを交換したほどの差が出ることもあ
ります。
そのことを世に示したのはオーディオ評論家の江川三郎先生でした。
しかし一度違いが認知されると妙に凝ったものが出回りはじめ、ごたご
たとしてやたらと太くごっつく高価なものがいいような風潮になって
きました。
江川先生はそれにも疑問を持ちすっきりとしたシンプルなものを自
分の工房から発売しています。
金コロイド・ナノ・ケーブルは本当に素晴らしく、これ以上のケーブルは
私は知りません。
音にくすみがなく、ぱっと立ち上がり、余分な響きが付かずに消えて
いきます。
音の純度が桁違いに感じます。
しかしスピーカーケーブル、RCAピンプラグケーブルそれぞれ2万円
前後と高価なためこのシステムにはどうしても収まりません。
それで私が江川工房から線材を仕入れて、自作しました。
仕上がりの美しさは江川工房に負けますが、性能は変わりません。
設定価格はスピーカーケーブル、RCAピンプラグケーブルどちらも1万
円です。
以上が今度おすすめするシステムの全ての構成要素です。
CDプレーヤー65000円、アンプ45000円、スピーカー20000円、SPケ
ーブル10000円、ピンケーブル10000円で総計150000円ですが、セッテ
ィング込みで135000円でお渡しします。
アンプがDENNONの場合は1万円安くなります。
これはあくまで標準で今手元にあるシステムを生かしながらの改良もで
きます。
ご質問は晴屋、松橋までお寄せください。
このシステムは今、晴屋の店頭で鳴っていますので興味のある方は
買い物のついでに耳をそばだててみてご視聴下さい。

晴屋の青い扉 その19 音楽とオーディオの睦言

オーディオのことを書くのは、もう止めようと思っていた。
「本業がおろそかにならないように!!」とハンマーで釘を刺されてい
たし、正直言ってほとんど利益にはならない。
最初から、そんなに売れるものでも、儲かるものでもないのは分かっ
ていたが、生活に馴染む道具としてのオーディオの姿を形にして、
提出してみたかった。
だから、技術的レベルも高く、様々なノウハウを盛り込んだ製品なの
に、その事にはほとんど触れずに、ただ置いて、聴いて判断してもら
っていた。
「ステレオの音の違いが分からない」と言っていた人が、「今まで、
つまらないと思っていたCDを聴いて感動した」と言ってくれた。
男の妄想や理屈で作り上げた普通のオーディオ装置の良し悪しには
興味がもてないけれど、音の違いが分からないのではなく、本当に
いい音に出会えば感じることも多いのだ。
私の家にいた猫のことを思い出す。
その猫は野性的で面白い猫だったけれど、ただ一つ気に入らない
のは、ギターなどの楽器の音にとても反応してすぐ逃げ出すのに、
ステレオでいくら大きな音を出しても、知らん顔なのだ。
そんなもの本物じゃありませんよ、と言われているようで悔しかった。
女性にはその感覚に近いものがあると思う。
けれど、今回紹介しているソニーSRS-Z1しゃちょーバージョンは、
かなり生に肉薄し、生活に溶け込む道具としてもスグレモノと思う。
そして、店での試聴を繰り返すうち、男性達も次第に興味を持ち
始めた。
そうすると、どうしても理論的な説明も必要になってくる。
何度も話すのは大変だし、時間的にも限界があるので、今回一気に
書いてしまおうと思う。
オーディオと音楽の関係に興味のある人だけ、お読み下さい。
まず、オーディオ装置は音を「再生」するためにあるものだ。
シンセサイザー等の電子音を除いて、マイクを使って音を拾う。
広いコンサートホールでも、2本のメインマイクの間隔は1~2m位が
普通だ。
決してホール全体の音を録音しているわけではない。
それも一つのマイクの口径は、1~2cm。
その小さな空間を通過する音という振動を、電気信号に変えて増幅
し、記録する。
その記録されたものを、私達は「再生」して愉しむ。
CDやレコード盤に記録されたものを、再び電気信号に変えてアンプ
で増幅し、スピーカーから音を出す。
まず一番問題なのは、スピーカーの口径だ。
スピーカが左右各1個の場合は、シングルコーンと言われ、16cmの
口径位が普通だ。
ちょうどマイクを大きくして反対に音を出すような構造になっている。
それでも、マイクに比べればかなり大きい。
自然な音が持ち味だが、空間の細かな再生には無理があるし、低
音も高音もどうしても不足しがちになる。
それで、通常は2個の2way、3個の3wayのスピーカーシステムに
なる。
低音用は大きいものは38cm口径位になる。
多ければ多いほど、大きければ大きいほど高級と思われている。
しかし、本当にそうか?
スピーカー大きくなればなるほどに、分割振動というコーン紙(振動
板)の暴れた動きが出てくる。
それを止めるためには、コーン紙を固く強くしてやればいい。
けれど、そうすると今度は重たくなって、細やかな動きが出来ない。
コンサートホールのPAのような大音量用のスピーカーは、小さな音
は苦手で、歪んで大げさなものになってしまう。
そうした音に慣れ、それがいい音だと思っている人もいるが、それは
好みの問題だ。
本当にいい音ではないことは確かだ。
女性で言えば、アクセサリーを多用し、香水の匂いもきつく、やたら
とジェスチャーが多いタイプだ。
どうぞご自由にという感じだ。
私の好みというより、本来の姿は、内面の美しさを素顔や色付けの
無い表現ですることだろう。
小さなマイクで拾った音は、小さなスピーカーで再生する。
それが原理的に言って正しい再生の仕方だ。
大きな振動板のスピーカーで出した音は、低音の量感はあっても、
無理やこじ付けがある。
その鈍さを補うために、威圧的な低音や、高音の派手な表情付け
をしているとも言える。
私がお奨めしているSRS-Z1は、ただ小さいというだけではない。
コーン紙には、バイオセルロースという高密度の素材を使い、共振
を無くし素直な音を実現している。
磁石もエネルギーの大きいサマリウムを使い、Σ型磁気回路で低歪
で広い周波数での再生を可能にしている。
大きな筆で、細かな部分を書くことは出来ない。
小さなスピーカーは、細やかで切れのある表現が得意だ。
しかし、低音だけはどうしても足りなくなる。
それを補うために口径を大きくすれば、他と同じことになってしまうし、
別のスピーカーで低音を補ってもやはり余分な音が加わって、うまく
いかない場合が多い。
その問題をクリアするのが、二ア・フィールド・リスニングという方法だ。
評論家の江川三郎さんが提唱したこのテクニックは、近接したスピ
ーカーに頭を突っ込むように、非常に近い位置で聴くものだ。
そうすると、そこに忽然と違う空間が現れるのを感じる。
単に音が出ているというだけでなく、演奏の空間が再現され、演奏
家のたたずまいや気持ちまで感じられるようになる。
小さなスピーカーでも、低音が出ていないわけではなく、その音量
が小さいだけなので、、近くで聴くことによって、高音から低音まで
均一に感じられるようになる。
更に、部屋やスピーカーの周囲からの余分な音の反射からも逃れ
て、音の本質にぐっと迫っていく。
けれど、ヘッドホンで聴くような、頭の中に音像が定位するような、
不自然さが全く無い。
その目の前に、ホロスコープで視るようなリアルな空間が再現され
る。
SRS-Z1の優れている部分として、合理的なアンプもあげることがで
きる。
私達が使う音量では、通常アンプの出力はせいぜい1W位だ。
それを50Wとか100Wとかの出力を持つアンプでは、スピーカーの
振動板の大きさと同じで、余分なノイズが増え、微小な音が犠牲に
なる。
Z1は、5Wというほどほどの出力を余裕を持った回路構成と良質の
部品を使って設計されている。
更にアンプの上部に鉄板を仕込んであり、CDプレーヤーの振動
や電磁波の影響を和らげる工夫もされている。
もう一つ、ケーブルについても書か無くてはならない。
SRS-Z1に使われているケーブルは、汎用のもので特に良質という
ものではない。
しかし、これは音が悪い。
いくら信号をきれいに増幅できてもそれを伝えるケーブルが良くなか
ったら、元も子も無い。
ケーブルはある意味、アンプ以上に音が違う。
汎用のものを江川工房の金コロイドのものに変えると、高音のうるさ
さが取れ、すっきりと伸びやかな音になる。
こもった見通しの悪さが無くなり、大きな音がうるさくないだけでなく、
小さな音がより息づいて聴こえる。
見かけの便利さや大きさなど、表面的な分かりやすさが大事にされ
る時代だけれど、本当に生活に馴染むものは、さり気なくて、しかも
飽きずにずっと長く使える。
お金と手間をかけた高級オーディオの世界も趣味として否定する気
はないけれど、特別なものでなく、生活の傍らにいつもある道具とし
てのオーディオが疎かでは、本当に音楽を愉しむことは出来ないし、
芸術も廃れていってしまうだろう。
現代に生きる私達に必要な、合理的で、身の丈の大きさの道具とし
て、SRS-Z1はお勧めできる。
(雑誌にも紹介され50セット以上お届けした愉音シリーズですが、
SRS-Z1が廃盤になり、現在は注文をお受けしていません。発展型
としてシャチョーのシステムとして、普通のコンポサイズのものを扱っ
ています。)

旬の音楽と野菜とからだ 7月 その5 夏の夕の匂い

梅雨が終われば、一気に夏本番。
毎日厳しい暑さが続く。
木々も緑を深め、強い日差しと高温に耐えながら、実りの秋を
待つ。
野生の動物も暑い時間はじっと動かない。
人間は、残念ながらそういう生活はなかなか出来ない。
それでも10~20分の昼寝は、特に夏は体力の回復に有効だ。
そして、日没。
陽が陰り、気温が下がり始め、火照った身体が鎮まりながら、
何か得体の知れない物が湧きたってくる。
夏の夕暮れは、私が一年のうちで一番好きな時間だ。
独特の鼻にツンと抜けるオゾンのような、匂いの無い匂いも感
じる。
まだ行ったことの無いバリ島の夕暮れはいつもこんな感じかと
憧れてみたりする。
けれど、バリ島では夕暮れは人が外に出ていないのだそうな。
魔が差す時間で、取り憑かれやすいのだそうだ。
魅力的で、不思議な時間だ。
けれど、そこに辿り着くまでには、暑い日中を通り過ぎなけれ
ばならない。
体力を維持していなければ、悦びも楽しみも無い。
人間の体力のうち、免疫にさく割合は意外と多い。
暑い季節は病原菌に対抗するエネルギーが必要だ。
カロリーは必要なにさそうに思えるけれど、しっかり食べないと
体力が落ちてくる。
口当たりのいい、冷たい飲み物に頼っていると、内蔵を冷やし、
余計に体力を消耗し、吸収力も落ちてくる。
冷たい酒も、より強い刺激があって、身体を痛める。
ビールもほどほどに。
刺激は少しなら気持ちいいけれど、次第にエスカレートして強く
しないと感じなくなり、身体の感受性はますます鈍ってくる。
冷たい飲み物だけでなく、強いエアコンの風も直接、間接に身
体を痛めつける。
出ていた汗が冷えて内攻すると、余分な風邪をひいたり、い
ろいろな変調がある。
夏は後ろからの風が要注意で、汗をかいた背中や首、ひじなど
が冷えやすい。
エアコンでなくても、扇風機の風も意外に冷えの原因になる。
こうした、冷えに対する感受性は、個人差がある。
中には平気な人もいるけれど、どちらかというと皮膚の感覚が鈍
っていて、感じにくくなっている場宛が多いのであまりいいこと
とは言えない。
さらっとした汗をかいていて、皮膚の弾力を保っているのが、健
康な状態だ。
魂というものは、皮膚に宿っている、もしくは皮膚にその状態が
現れるのではないかと思ってしまう。
皮膚や身体が鈍れば、魂は腐ってしまう。
世の中に正しいことというのは、滅多にないけれど、エアコン等
の機械になるべく頼らず、自然の恵みと知性による工夫で暑さ
を乗り切っていくのは、正しいことだと言える。
生の果物や野菜には自然の酵素やミネラルがいっぱい含まれ
夏にこうした物が特に必要だ。
それに一杯の麦茶やルイボス茶の清涼感、夕暮れの心地よ
さ。
こうした、ものを音楽に求めるならドビッシーだ。
センシティブな曲が多いので、フォーレと同じように女性的なイ
メージを持ちやすいけれど、どっこいこの人は逞しい。
感性と知性を最大限に使って、伝統を越えた所で、新しい世界
を切り拓く気概に満ちている。
そして見ることのできない世界まで表現しようとする。
旅はあまり好きではないようだが日本の版画を題材としたり、東
洋的な趣味の作品も多くある。
透徹した感覚美と、権威に縛られない近代的知性の両立が、
ドビッシーの世界だ。
たくさんあるピアノ曲はどれも素敵だけれど、これだけあればと
いう感じでもない。
古典に連なる正統的な音楽と捕らえたワルター・ギーゼキング、
現代につながる物としてとらえしかも品格を失わないミシェル・
ベロフなどはどれもお勧めできる。
バイオリンソナタは、ジャネット・ヌブーの青白い光りを放つ演奏
が凄い。
夏の闇に、妖しく光る。
弦楽四重奏は一番聴く機会が多いかもしれない。
渇いた音色がかえって感覚を引きずり出すジュリアード弦楽
四重奏団。
柔らかく、穏かな表現から、水々しい感覚が沸き立ってくる、
ハーゲン弦楽四重奏団。
ドビッシーと同時代を生きた、情緒や空気感が漂うカペー弦楽
四重奏団の古い録音。
交響詩「海」は、未だにトスカニーニの白熱する古い録音を上回
る音を聞いたことが無い。
暑いときに、熱いお茶を飲むと、身体の感覚がリセットして、体調
が戻る。
音楽でそれをするなら、ビバルディだ。
ビバルディという人は、きっと熱血漢だったのだろう。
「赤毛の祭司」と呼ばれ、孤児たちを集めて演奏会を開き、生活
の面倒を見ていた。
技術的にはそう難しくないけれど、演奏効果が高く、音に躍動
感があり、聞く者の感覚をひっぱっていく。
有名なイ・ムジチの演奏も悪くないけれど、私はブリュッヘンやイ
ル・ジャルディーノ・アルモニコの才気あふれる活発な演奏を好ん
で聞いていた。
しかし最近は、レイチェル・ボッジャーのバイオリン協奏曲以外
に聞くことが無い。
ビバルディのエネルギッシュな面だけでなく、人としての優しさ
や柔らかさも感じることが出来る。
人間性の豊かさを音にして、西洋音楽の最良のエッセンスが詰
っている。
夏の夜が一番合うけれど、昼もいいし、一年中楽しめる。
昼の暑さで疲れ、身体や頭がしびれるような感じの時は、ハワイ
のアーティスト、ケアリー・レイシェルの「ケアラオカマレイ」という
アルバムをよく聞く。
ネイティブな音やポップス、沖縄の移民の影響かビギンの曲まで
入っていて、売るためでなく、身の周りの好きな音楽を自然にや
っている素朴さが、凝り固まったものをほぐしてくれる。
反対に不完全燃焼で、澱が溜まっている感じの時は、ジョン・マク
ラフリンという滅茶苦茶うまいギタリストが、インドの輪をかけたテク
ニシャンの音楽家たちと組んだグループ、リメンバー・シャクティー
のTheBeliverかSaturdayNightInBombayというライブのアルバム
を聞いている。
全てを焼き尽くすような熱く、激しい演奏が、カタルシスをもたらす。
歳をとってきた私は、静かに夏を耐えたいと思ってしまうけれど、
これが本当の夏の感覚かもしれない。

晴屋の青い扉 その41 本の旅~イリイチをめぐって 3

イバン・イリイチが、ディヴィット・ケイリーに答えたインタビューをまとめた
「生きる意味」(藤原書店)には、「システム」「責任」「生命」への批判と
いうサブタイトルが付いている。
行動する知性として世に出たイリイチの晩年の思想が語られている。
以後は本からの抜書きで、表現は変えていないけれど、順番は変えて
いるところがある。
「・・・・たとえば学校は、知識に信頼を置き、知識のパッケージ化が可能
であると信じる社会を築きます。また、知識とは古びていくものだと考え、
次から次へと知識が増していくことが必要であると信じる社会を築きます。
知識を価値として、善ではなく価値として、重んじ、それゆえ、商業的言
い回しでそれを表現できるような社会を築きます。これら(学校教育が生
みだすこれらの神話)はすべて、この不条理な現代社会を生きるうえで
不可欠なものです。
・・・・すくなくとも大学のシステムはテレビのようになってしまいました。
すべて(の知識)は断片化され、それを企画した人間によってのみ理解
できるしかたで各種部品が組み合わされた強制的なプログラムが存在
します。それは、自分たちが学ぶことは誰かに教えてもらわなければな
らないという事実にすっかり慣れきってしまった学生たちを生み出します。
そしてかれらは、教えてもらわないことには決して真剣に考慮しようとは
しないのです。わたしは、人びとがそうした学校のシステムのさらなる
発展について、これほど道徳的に寛容であり続けるとは思ってもみま
せんでした。
・・・私は学校(の存在)に反対する理由はありません。わたしは強制的
な学校教育に反対しているのです。
・・・自由に通うことのできる学校は、各人にかれ自身の企画する特定の
学習課題を組み立てる自由を与えます。学校はそれが強制的なものに
なるとき、われわれがかつて見たことのないような、目を眩まされた人び
と、「学識ある」人びと、精神的に思い上がった人びとを生み出すので
す。この五十年にわたる学校教育の猛烈な進展は、テレビの消費者たち
を生みだしてきたのです。
・・・私は、ボランティアたちが、開発に従事するボランティアたちが、お
こなっていることを、まったく異なった観点から眺めてみたいと考えていま
した。・・・わたしが問うていたのは、真摯な人びと、善良な人々、責任感
ある人びとが、ペルーに送られ、村に赴き、その地の住民たちと同様の
生活を営もうとすることによって、何が起こっているかということでした。
四つか五つの井戸が掘られ、三年もすればその人は帰国するでしょう。
誰でも(ボランイィアに訪れた)だれかのことを気まぐれに思い出すことは
あるでしょう。しかし誰もが等しく学ぶのは、(ボランティアに訪れた)その人
が井戸の掘り方を知っているのは、かれが大学を出たからだということ
です。それゆえ、ラテン・アメリカに派遣されることによって、そのボラン
ティア要員は、高度な(教育という)サービス消費の実演モデルとなる
わけです。・・・
・・・この世界に存在する一個の原子爆弾に関して、人びとは叫び声
をあげる以上に何を語ることができるというのでしょうか? わたしがドイ
ツで教えはじめた当時、その地にバーシング・ミサイルが配備されま
したが、それに対する抗議運動をおこなおうと考えた、高校生を中心と
する若者たちがおり、わたしはかれらに協力することにしました。わたし
はこう言ったのです。抗議するにはそこに黙って立つ以外に手だては
ない。われわれはこの問題について何も語ることができない。われわ
れの恐怖に由来する沈黙によって証言をおこなおうと。恐怖に由来す
る沈黙においては、トルコ系移民の洗濯婦も、大学教授も、互いに並び
立って、まったく同じ主張を発することができます。説明をする必要が生
じるやいなや、抵抗はまたもや、エリート主義的な営みと化し、皮相的な
ものと化してしまうのです。わたしは平和に関するおしゃべりの会に参
加したいとは思いません。むしろわたしは、ある種の物事を目の前にし
て、そのおぞましさゆえに沈黙するという重大な権利を、それによって
わたしが感じているおぞましさを目に見えるものにすることができると
して、主張したいのです。・・・・
・・・わたは、ケアをおこなう職業が錦の御旗としているケアというものに
対して、疑い深くなっていますし、ケアをおこなう職業とは、本質的に人
びとを無力化するものだとみています。だからこそわたしは、次のような
場合、憤慨を覚えるのです。・・・・思いやりがあって活気に満ちた立派
な人物が、わたしに向かって、「しかし、棒きれのような脚をして、お腹を
膨張させた子供たちのことをあなたは気にかけない(ケアしない)のです
か。サヘル(サハラ)でクワシオルコル(アフリカでみられる栄養失調による
小児病)に苦しむ人びとのことを?」と尋ねる場合、わたしはすぐさまこう
答えます。かれらのことをケアしているという意識を、わたしの心から消し
去るためにできることは何でもしよう。わたしは恐怖を覚えたい。わたしは
あなたが知らせてくれたこの現実を、心底味わいたいと思っている。自分
が無力であることから逃れたくはないし、「自分はかれらのことを気にか
けている」とか、「自分にできることはすべてやってきたし、いまもやってい
る」などと言い訳したくはない。わたしは、自分の心の中で、そうした子ど
もたちや、そうした人びとが味わっている逃れえない恐怖をともに味わい
たいと思う。わたしがかれらのことを、積極的に、本当の意味で、愛せな
いことはわかっているのだと。というのも、人を愛するということは、・・・
いま現在おこなっていることをすべて放り出して、その人を抱きかかえ
るとを意味しているからです。・・・
・・・このことば(責任)次のような社会的想定と密接な関わりをもっていま
す。すなわちその想定とは、われわれの世界を、自分たちが欲するか
たちにつくりかえることができる、あるいは、自分たちがかくあるべしと考
えるかたちにつくりかえることができるという想定です。「われわれは世
界に対して責任を負っている」と主張するとき、われわれはそれによっ
て同時に、自分たちは世界を支配する力があると言っていることにな
ります。ですから、いわゆる科学的な企てを追求することによって世界
をつくりかえていかなければならないと確信することによって、われわ
れはますます、自分たちが世界に責任を負っていると信じなければな
らなくなるのです。・・・・
わたしは、現在の生活技術は回復可能であると強く信じています。苦
しむ技術や、死ぬ技術や、生活する技術が存在することを信じている
し、それが質素で懸命なものであるかぎり、楽しむ技術、ないしは、楽
しく生きる技術というものが存在することを信じています。・・・・
・・・ガイアは、人工衛星の中でくるくる向きを変えるハッセルブラッド・
カメラによって撮影された写真以外のなにものでもなく、そのようなガイ
アとは(実際には)地球を否認するものなのです。・・・・場違いな具体
性。挑発的な官能性。視点の強制。技術的な要請を規範的な責任へと
転じてしまうこと(などが古典的な科学との相違点です)。
・・・(わたしがすすめているのは)闇の中にろうそくの明かりを運ぶこと、闇
の中のろうそくになること、自分こそ闇の中の炎であると知ることなので
す。・・・・・
・・・明日というものはあるでしょう。しかし、それについてわれわれが何
かを言えるような、あるいは、何らかの力が発揮できるような未来という
ものは存在しないのです。われわれは徹底的に無力です。われわれは、
芽生えはじめた友情をさらに拡大していく道を探ろうとして、対話をおこ
なっています。・・・ガイアについて語ったり、世界に対する責任を云々
したり、それに関してわれわれは何かをなすべきであるという幻想を信
じている人びとは、かれらを狂わせる気違いじみたダンスを踊っていま
す。わたしは一個の原子でも一個の美でもありません。・・・そうした不
気味なエコロジーのダンスとは対極的なものを象徴する饗宴を生みだ
すことができるのは、このいまという時間を、できるだけそれを利用する
ことがないことによって祝福しうるようなセンスです。つまり、この現在を、
それが世界を救うのに役に立つからではなく、それが美しいものであ
るからこそ祝福しうるようなセンスです。それゆえわたしは、いまをいき
いきと生きようと呼びかけます。あらゆる痛みや災いを抱えつつ、この
瞬間に生かされていることを祝福し、そのことを自覚的、かつ儀礼的に、
また率直に楽しもうと呼びかけるのです。わたしは、そのように生きるこ
とが、絶望や非常に邪悪な種類の(責任という)宗教心に対する解毒剤
になると思われるのです。」
私は、一つの生命ではありませんと、暴力的な知性で自分や人間を規定
することを拒否したイリイチだが、キリスト的な愛や知性への信頼を捨て
ることはなかった。
肉声によって、巨大な知性の葛藤とそれを通り越した静かな境地が垣間
見れる。
その鋭さと光は、イリイチとは幾分違う場所にいる私たちの足元も照らす。
「地球にやさしい」「すべての子供のために」といった表現の気持ち悪さ
の根をイリイチは見事にほぐして見せてくれる。
この本を自分なりに読み解き、再構築したこの一ヶ月間は多忙を極め、
辛くもあったが充実した時間だった。
イリイチに少し近づき、何よりも自分の弱さや曖昧さとの闘いでもあった。
一冊の本との、時間と空間を越えた、知性に照らされた旅だった。

晴屋の青い扉 その40 本の旅~イリイチをめぐって 2

イリイチは人一倍感じやすく純粋な心を持った、しかし人一倍自分にも
社会にも厳しい眼を向けた人だった。
学校や医療、福祉の現場はシステムの矛盾や現実のしわ寄せを受け
混乱している。
それを取り繕っているのは個人の善意だけれど、イリイチはそれさえも産
業化を助ける働きとしている。
ニーズを合法的に作り出し、サービスを提供することで報酬を得て、世
の中のシステムに組み込んでいく。
そんな一見当たり前のことも、イリイチにとっては、形骸化することで人
間や周囲との関係を破壊する動きということになる。
それは多分に私たちのような八百屋にも向けられていて、市販のものと
は違う「特別で希少な」商品として流通させ差別化することで、商品経
済の発展を助けていることになる。
もちろん私はそれらに逆らおうとはする。
無農薬とか無添加という看板はあげず、この美味しい野菜たちを特別な
ものでなく、普通のもの当たり前のものとして扱おうとしている。
価格も高くなりすぎないよう努力し、多くの人に受け入れられやすいもの
にしようとしている。
仕事の内容もなるべく分業化せず、メンバーがそれぞれ責任を負いなが
ら、全体を見られるようにしている。
生産者も直接取引きしているものが多く、産地の状況や自然の息吹を
伝えるようにしている。
小さな規模での小さな流通で、互いに支えあう関係が少しは出来ている。
そうは言っても、車は使わなければ仕事は出来ず、エアコンは無いとは
いえ月に8万円分位の電気を使い、売り上げを上げるためにそれなりの
営業努力もしている。
これらが、小さな差なのか、根本的なものに繋がっているのか、私には
よく分らない。
自分がその瞬間に出来るだけのことをしているに過ぎない。
今の学校や教育システムに疑問を感じているけれど、子供たちに特別
な教育を受けさせようとは思わなかった。
この世で生きていく以上は逃げる場はないのだから、今の社会の人間
関係を踏まえて、自分を発展させ、主張できる人間になってほしいと願
っている。
4人の子供のうち、一人は中学校を半分しか行かなかったけれど、それ
でも全員、持って生まれた個性は潰れずに成長してくれているように感
じる。
その個性を社会の中で生かしていくのは子ども自身の問題だから、親と
しての責任は果たしかけているかもしれない。
こうした、感じることはあってもそれを前面には出さず、やり繰りしながら
やり過ごして、事態の好転を待つ生活態度は、イリイチにとっては、とて
も妥協的なものだろう。
日本人特有の目立つことを嫌う感受性が働いているのかもしれない。
しかしこの曖昧さの底には、相手の立場になって物事を感じるられると
いう優れた感性も潜んでいる。
これは同情という、感情の押し付けとは違う。
自分に集中していながら、自然や周囲の人たちとの一体感を感じる
感受性は、今は忘れられかけているけれど、日本人が長く持ち続けてき
たものだった。
だから、私たちが経済の発展に背を向け、自身の生活を組みなおすとき
にはぜひ必要なものだと私は思う。
システムとしてコストを要求してサービスを提供するのでなく、自然の要
求として隣人に手を貸すのだ。
医療に関しては、私たちは特殊かもしれない。
薬が要らないのは、野菜も人間も同じだと思っている。
社団法人整体協会の会員で、歯医者以外のお医者さんにはほとんど
お世話になったことがない。
そういう立場からすると、イリイチの言う「苦しむ権利」というものは、なん
となく分るけれど、私たちとは少し違うような気がする。
整体では身体の自然な経過を大切にする。
異常や疲れを解消しようとする痛みや熱なども、避けることは出来ない、
しかし積極的に受け入れれば、より身体を丈夫にすることができる経過
の形だ。
自然で必要な経過を辿っている時は、熱や痛みがただ苦しいだけでな
く、快感もある。
「苦しむ権利」と言うとき、その快が見落とされているように感じる。
また整体では、気の交流や感応で身体を整えていく。
気は大きな流れでは「天気」であり、一人一人の細かな動きが「気分」に
なる。
宇宙的な大きな流れから、個人の心までを全体として一つのものとして
捉える感覚を日本人は持っていた。
元々持っているものが発揮されているのが「元気」で、気が病んでいる
のが「病気」だ。
病は身体の異常である以前に、気が枯れ(汚れ)たから起きると認識し
ていた。
また、「腹が立つ」、「胸が痛む」など感情の動きを身体で感じ表現する
細やかで精密な感覚も持っていた。
ケガは、「怪我」と書き、我を怪しむという意味になる。
事故でも、偶然に見えたり、不運と感じても、底には自分の心の隙や
怪我をしてまで、自分を主張したいという要求は無かったか?
まず自分の心を覗くべきだと昔の人は考えていた。
これらの多くは失われた感覚だが、私たちの心にはどこかに残っている
ものでもある。
言葉に厳密な感覚を持っていたイリイチがこの感覚を知ったら、また新た
な地平が開けたのではないかなどと思ってしまう。
死というものを、医師だけが認定できると法律で決まった時から、死も
生も医師が取り仕切るようになったと、イリイチは言う。
もちろんそうなのかもしれないが、それを受け入れながら風穴を開けて、
苦しみを受け入れ、自分の生と死を自分の手に取り戻す方法もあるの
ではないか。
私たちにはその可能性が残されていると思う。
こうした文章は同調してくれる人がいる以上に、反感や不信を覚える
人も多いだろうと思う。
老いつつある私の思い過ごしや妄想でもあるかもしれない。
しかしイリイチの本を読み、その精神に触発され、長い間に心の内にあ
ったものが、一息に一つの形にまとまった、正直な感想であるに違いな
い。
死んでしまったイリイチはまだ私の精神の中に生きているし、本を通じ
てこうして一緒に旅することも出来る。

晴屋の青い扉 その39   本の旅~イリイチをめぐって 1

年に数冊しか本を読まない。
忙しさにかまけて、向上心や探究心は、ついつい薄くなる。
楽しみとしての読書など考えることも出来ない。
けれど先日かかりつけの歯科医で、「地球家族」(TOTO出版1980円)
という本を見つけ、思わずネットで手に入れ読み始めた。
ピーター・メンツェルというカメラマンと、フェイス・ダルーシオというライタ
ーが共同で取材したこの本には、「世界30カ国のふつうの暮らし」とい
うサブタイトルが付いていて、30の国の平均的収入で平均的家族構成の
家族全員と、持ち物全て家具やペットにいたるまでを家の外に持ち出し
て一枚の写真に収めてある。
実はこの絵葉書版を晴屋でも取り扱っていた。
違う国の生活観や空気感が伝わってきて、楽しく微笑ましいものだった。
この本はその完全版で集合写真の他に数点の印象的写真とレポートが
添えてある。
この本を手にした私が望んでいたのは、なんとなくほのぼのしたものに出
会って、少し日常の疲れを忘れたいというものだった。
さまざまな条件の中で人間はこうも多様に生きられるのかと生活力の
たくましさが煌いている。
しかし、切実で行き詰った現実をつきつけられ、素朴さに触れ、より所を
求める期待は見事に裏切られた。
いたるところに商品経済の波は押しよせ、伝統的な暮らしは薄れていく。
鮮やかな色のビニールの包装が幅をきかせ、ブータンの修行僧がコー
ラをラッパのみする。
最も悲惨な印象を持ったのが、元共産主義国家だったアルバニアだ。
アフリカと比べ特に生活が貧しいとは見えない。
アフリカでは親がしたのとほとんど同じ生活で貧しさを苦にしていないが、
アルバニアでは家具もあまり無い家の中にテレビだけはあり、ローマから
飛行機で1時間ほどの距離だというともあり、一日中イタリアの豊かな暮
らしが映し出され、水道も無い、医療も満足でない、食べ物も質素な暮
らしを、救いようも無く貧しいと感じてしまう。
しかし、よく考えてみると、「先進国」にいる私たちもテレビやマスコミに先
導され、消費をあおられているのは本質的には変わりがない。
いたたまれない気持ちが心にのしかかったが、それで何故か火がついて
しまった。
次に手にとったのは、イバン・イリイチという人の対談の本だ。
イリイチは以前「シャドウ・ワーク」という本を読んだことがある。
イリイチの知性に圧倒されどうしてこんなことが分るのかと感嘆し、静かに
内で燃える炎に私の内面も触発され、生きる指針を与えられた。
イリイチが亡くなったのを知ってから以後の本を買ってあって、いつか読
もうと思っていたものに手が出てしまった。
本のタイトルは「生きる意味」。
デビット・ケイリーという人がインタビュー嫌いのイリイチから巧みにその
世界を引き出している。
インタビューに先立ってケイリーが、イリイチの思想の流れを序にまとめ
ている。
それだけでも圧倒される内容と高みがある。
専門的な言い回しや難しい言葉が多いので、私なりの言葉で組みなお
したのが、以下の文章だ。
つたなさや誤解があるかもしれないが、お伝えしてみる。

イリイチは「脱学校の社会」の中で、今日の学校の三重の機能につい
て説明している。学校は学ぶための唯一の場であり、限りなく向上す
るためには学校に通わなければならないと信じさせる。その目標のピ
ラミッドの頂点にはごく少数の人間しか到達できないと示した上で、目
標に達しなかったのは私たち自身の責任なのだと納得させる。
そうして限りなく上昇志向する少数のエリートと、そうはなれないと負い
目を感じる大多数を作る。テレビに従順な圧倒的多数の消費者が生
まれる。
しかしイリイチは、学校の存在そのものを否定しているわけではない。
学校schoolの語源スコラは暇という意味で、ゆっくりと知を沁み込ませ
る場は大切にしていた。
ある仕事をする能力がある人間が、学歴が無いからその仕事につけな
いことが、憲法の平等に反するといっている。
学校を公立化しないことで、人間は個性を取り戻し、自分にあった職業
を選択できると考えた。
学校教育の分析としてはじまったものは、「開発」への批判へ展開して
いった。開発を自立的な生活への侵略と規定して、それまであった環
境に適応した伝統的な暮らしを崩壊させるだろうと主張した。
アフリカに援助と開発の名の下に小麦粉が届けらけれ、その美味し
さに目覚めた彼らは土地にあっていないのに作ろうとする。当然まと
もに育つはずも無く食糧難にみまわれる。小麦に対する需要は増え
て、価格は高騰する。アフリカはますます貧困化し、どこかに多くの利
益をえる少数の人たちがいる。
イリイチは言う。「今までのところ、経済の成長とは、人びとが何かを
するかわりに、それを買うことができるようになることを常に意味して
きた。すなわち、しばらくすると、人びとは商品を買わなければならなく
なる。なぜなら、商品無しにやっていける自然的、社会的、文化的諸
条件が環境から消えうせてしまうからである。」
便利な商品が次々に目の前に現れ、「低開発のやましさ」が植え付
けられる。喉の渇きをコーラへの要求に置き換えるような商品への依存
が強まり、その結果「近代的な貧困」が生まれる。
「それは、生活の過酷さを和らげることなく、その尊厳を打ち砕くであろ
うし、どうにか耐えうる窮乏の苦しみを、物質的ニーズの耐えがたい疼
きに置き換えるのである。」
イリイチは更に輸送と交通の問題に取り組んだ。多くのエネルギーを
使う高速度の移動方法は、便利さの反面、社会の環境を圧倒し壊す
と言っている。そこでコンヴィヴィアリティ(ともに生きること)のための道
具として自転車が推奨されている。
自転車は精巧な素材と工業技術の組み合わせから成り立つ一方、
けがを生じさせない程度のスピードで走り、しかも公共空間を安心で、
静かで、清潔な状態に保つ。自転車を使用する人は、他人が同じこ
とをするのを妨げないが、車を使用する人間が多ければ多いほど、車
は有用なものではなくなる。
禁欲、あるいは自己制限する選択こそが、専門技術者であるエリート
たちの集団による監視と管理の強化にかわりうる唯一の道であると、
イリイチは考える。
次にイリイチが注目したのは医療の問題だ。一定の度合いを超えた
健康の医療化は、苦しむ能力を衰えさせることによって、また、「苦し
むことが高貴な行為となりうるような共同体の文化的背景」を破壊する
ことによって、かえって苦しみを増大させるとした。
イリイチが関心を寄せていたのは、「支配する職業」がもつ権力に歯止
めをかけその権力の神秘性を取り除くことだった。「支配する職業」は
社会から認められた合法的な独占企業であり、暴力団の冥加金とりた
てと同じ仕組みだと言っている。
しかし一方この頃からイリイチは、新たな現実が生まれているのを感じ
る。イリイチの批判が学校そのものに対するものと理解される場合、そ
の批判が、自宅での学習の形のまま、「社会の全てを一つの巨大な
教室に変えること」に専念する改革者の努力を後押しするのに役立っ
ているということだ。またイリイチは、「脱病院化社会」の中で、専門家の
ケアに変わるものとして、セルフケアということばを使ったが、十年後
現実にはセルフケアが、人びとがもっている「みずからの現実を苦し
む」能力や「自己のかけがえのなさを保つ」能力を意味するのではなく、
全面的に自己管理を行う患者という状態を意味していることに気づき、
うんざりしてしまう。以後イリイチは、読者に道を示すことなく、歴史や
社会のあり方を検証し、それをそのまま伝えて、読者に行動の選択を
ゆだねることになる。
「シャドウ・ワーク」では、賃労働とそれとともに押し付けられる影の労
働=シャドウワークが検証されている。シャドウワークは賃金を得るため
に強制的にこなさざるをえない無賃の労働で、通勤や買い物、更には
家事やレクリエーションまでが含まれる。それらは労働を続けるために
必要なものだからだ。シャドウワークに対応することばとして、イリイチ
は「ヴァナキュラー」という言葉を使っている。これはその土地に根付い
た伝統的な生活で、本来ヴァナキュラーの領域であり、一番豊かなもの
であるはずの家庭生活までシャドウワークに組み込まれることで、家事
はとるにたらないつまらないもの、仕方なくするものにされてしまって
いる。ゴルフや高級車に乗ったり海外旅行で楽しむのも、賃労働を
続けるための憂さ晴らしとなる。しかし、イリイチは伝統的な生活を偶
像化するのは、「感傷的かつ破壊的なことであろう」と言っている。新
しい生活形態の創造を私たちは望まれている。
イリイチは更に仕事というものの歴史的探求を続け、「ジェンダー」という
本で発表する。産業化以前の社会ではどこでも、例外無しに、男の仕
事と、女の仕事があるだけで、仕事それ自体というものは無かった。男
の道具と女の道具。男の時間と女の時間。男の場所と女の場所など
が区別され、お互いに補い合う二つの領域から成り立っていた。そう
した男と女の社会的区別をジェンダーといい、セックスという生物学的
男と女の性差とは区別している。
伝統的な社会から近代社会への移行は、ジェンダーの庇護から、
セックスの支配への移行としても説明されうる。大きな経済の体制の中
で、女性が男性と競うことは、一人ひとりの女性に戦争の継続を強いる
とともに、まったく新たな敗北も強いる。少数者のいっそうの大きな特権
の享受と、大多数のいっそうの零落が現れる。
「ジェンダー」は、イリイチの著作の中で最も誤解され、酷評されたもの
だった。過去や父権的なものへの回帰と捉えられ、フェミニストたちの
標的となった。イリイチは当初から、開発は呪われたものであり、すべて
の人間に公平に賃労働を与えるのは実現不可能な破壊的な幻想で
あるといい、新たな希少な商品は独占や欲求不満を生むと想定して
いる。イリイチは男と女の性差を前提にした運動は、環境破壊を押し
とどめようとする動きと軌を一にするし、商品やサービスの根源的な
独占に反対する試みとも軌を一にする。経済の縮小と常識の回復こ
そ、三つの運動すべてが各々に成果をあげるための共通に必要とする
条件だと語った。

旬の音楽と野菜とからだ 6月 その4 雨の日の情感と停滞

旬の音楽と野菜とからだ 6月
その4 雨の日の情感と停滞
日本は、水に恵まれている。
四方を海に囲まれた島国で、一年中それなりに雨が降る。
おかげで世界有数の森林国でまだまだ多くの緑を楽しむこと
が出来る。
この季節は、雨が続き、植物は水々しい表情をたたえる。
夏と春の間の梅雨という季節は、最も日本的な季節と言え
るのかもしれない。
しっとり潤った情感と、裏腹のじっとりと重たい停滞感。
これから世界中はますます水不足になり、水を奪うための戦
争もあるだろうと予想されているのに比べれば、贅沢なことに
違いない。
水も少しなら潤って快感があるけれど、余り、滞ってくると、濁
り、腐ってくる。
湿気が多いと、同じだけ空気を吸い込んでも、酸素の吸収は
少なく、水気が身体に入る。
どうしても呼吸器に負担がかかり、疲れがたまる。
だからこの季節は、身体の中の水をどうやって循環させるか
が、健全な生活のポイントになる。
腎臓もくたびれやすくなり、身体が重く感じ、ものぐさになる。
一番の解決法は、積極的に汗をかくことだ。
汗は、余分な水分だけでなく、老廃物を体外に出し腎臓の負
担を軽くしてくれる。
最初べたついて不快な汗も、それを通り越すとサラッとした
気持ちいい汗に変ってくる。
梅雨時は意外に冷えやすい。
出た汗を冷やさないよう小まめに拭いたり、首にタオルをまい
たり、長袖を着てひじを覆うと冷えにくくなる。
暖かい水分を身体が求めるけれど、熱いスープやみそ汁は、
身体を温め、新陳代謝を盛んにしてくれる。
東アジアや中国の四川など、湿気が多く蒸し暑いところでは
辛い物の助けを借りて汗を出し、代謝を積極的にする食生
活の文化がある。
だるく、重く、動かなくなった身体に刺激を与えてくれる。
日本の比較的穏かな気候の中では、やさしくからだに沁みる食
べ物を、私たちは無意識に求める。
旬を向えるカリフラワーや白菜、かぶなどの白くて柔らかな味の
野菜は、この時期の自然からのステキな贈り物だと思う。
音楽にそれを求めるのだったらなんといってもブラームスだ。
音楽の授業で見たブラームスの写真は、髭面で太っちょで、
なにか音もはっきりせず、女々しい感じがあって、若い私には
いったいどこがいいのか理解が出来なかった。
生ぬるく、優柔不断としか見えなかった。
20代でやっとクラリネット五重奏が好きになり、30代後半、厄年
が近づいて体力も気力も落ちていく状態で、感じるものが変
わってきた。
この人は、わけも無く突き進んだり、壊したりはしない。
周囲のことを考えながら、フワッと包みこもうとしている。
そんな、真綿にくるまれたようなうっとおしさが、若い私には
苦手だったのだけれど、一度くるまれる楽に慣れてしまうと、
時々ひたってみたくなる。
身体も心も重い日、ゆったりと流れる音にくるまって、じっとし
ているのも気持ちよい。
雨の日の、なんともやる瀬ない日に、ブラームスはぴったりだ。
一番聴く機会が多いのは、名手デュメイの弾くバイオリン・ソナタ
で、しっとりした情感と多感な内的な起伏を両立している。
ピアノのピリスもいつもとは違う積極的な表現で受け答え、それ
がさらに情感を深めている。
ウラッハのクラリネット五重奏は暖かい音で、真っ直ぐに心に
届く。
音楽する喜びが癒しをます。
名曲、弦楽六重奏はひたすら美しく疲れた心と身体を溶かす。
ピュアな美しさならメニューイン、人間の暖かさに触れたいなら
カザルスのものがおすすめだ。
ピアノではグールドが弾いた間奏曲集が絶対のおすすめ。
人生の哀愁や男の寂しさが泣かせる。
春には女性奏者が良かったバイオリン協奏曲も、この季節          、
なると男性の物がよくなる。
渋いシゲティと濃密なオイストラフ。
梅雨のブラームスは男の色気や人生を背負った後姿が似合う。
交響曲はヴァントのものに惹かれる。
老いることもまた、美しいと思える。
しかし、覇気と理想の美を追求したセル、感性の高まりを素直
に音楽にしたケンペ、剣豪が名刀で切り込んだようなムラビンス
キーも忘れられない。
激辛の料理で、身体にピシッとムチを入れるタイプの音楽は、
ジャズ・サックス奏者のコルトレーンのライブアルバムだ。
これは疲れて感性や身体が停滞した時に一年中使ってい
る。
ビレッジ・バンガードかヨーロッパでのライブが気持ちいい。
水を得たようなという表現があるけれど、雨のときに聞くと、
全く別物に聞こえる音楽もある。
クラプトンの「ピルグリム(巡礼者という意味らしい)」は、彼の個
人的な悲しい体験を経て作られたものだという。
10年ほど前、屋久島に行った時、音は何も持っていかなかっ
たけれど、頭の中でこのアルバムの音がずっと流れていて、他
の音が全く必要が無かった。
重くくすんだ天気にこれ程合う音楽も無い。
もう一つはビル・エバンス最後のアルバムYouMustBelieveIn
Springが、なんとも水々しい情感をたたえている。
亡くなった奥さんを偲んだ曲から始まり、静かで詩的なジャ
ズピアノの極致を聞かせる。
このアルバムは晴れている時に聞いても何も感じない。
雨には、雨の楽しみがある。

晴屋の青い扉 その54 忘れたい

一向に収束の気配を見せない原発のことを考えていると、世の中にもう
何もいいことがないような気さえする。
重苦しい気分の中、それでも毎日を踏みしめていると新しい出会いと動
きはあるものだ。
とまと畑の漆器は本当に多くの支持を集め、今までの晴屋のセールで
は最大の売り上げを記録した。
ほぼ完璧な安全性と素材の良さに、手間をかけた丁寧な作りが自慢だ。
シンプルで質感のよい美しさにあふれ耐久性があり、実用的で機能的
であり、生活に溶け込みやすい。
いつもの食事が特別のもののように感じる。
小田原漆器の職人であった田中さんが、自ら中国に行き製作と指導
をしている。
その形や美しさを創り出した、安全で良質のものを多くの人の生活に
取り込める価格で届けたいという、志の高さに感動を覚える。
その意気を感じたら、こちらもじっとしてはいられない。
セールの前後3週間くらいの間に同じセールストークを100回以上繰
り返しただろうか。
繰り返しが苦手で、すぐに飽きる私だが、不思議なほどにやりとおせた。
もちろん、一人ではできないことだ。
食い入るように見つめて釘付けになったり、最初は「物を減らそうと思
っているから」などと言っていた人が説明を聞いているうちにいつの
間にかすっかり買う気になったり、手触りのよさにうっとりしたりといった
反応があってはじめて成り立つ会話だ。
そうして思った以上の手応えがあり、多くの注文が寄せられた。
お椀だけで12種類あり、品物を間違えずに揃えるのは、これまた
細かな作業が苦手な私にとっては、年末の忙しさに匹敵するような緊張
の連続だった。
震災や原発のストレスもあったうえに、乾燥が続き、花粉が飛び交い、中
国からは黄砂もやってきて、私の弱点の咳が始って止まらない。
こうした時の咳は自然な働きでそれ自体に問題はない。
気管の中には繊毛があって、ほこりや雑菌が肺に入らないよう防いで
いる。
湿気があれば自然に繊毛が不純物を外に出してくれるのだけれど、
乾燥しているとうまく働かない。
それで咳で気管から外に押し出している。
しかし、咳が続くと気管が炎症を起こし、体力も消耗して疲れがたまっ
ていく。
そして季節がら紫外線も強くなり、眼の疲れは迷走神経を緊張させ、
よけいに咳が出るし、眠りも浅くなって、ますます体力は落ちてくる。
今回のこの咳には、放射能の影響も少しはあるのではないかと思って
みたりする。
私がお世話になっている整体の指導者に今回の原発で影響を受けて
いる人がいるか質問してみた。
国立にあるその指導室では、誰も影響は出ていないという。
放射能の影響は肝臓で確認するそうだ。
CTやレントゲンの影響はすぐに分かるという。
今の時点ではそこまでの問題は起きていないのだろう。
中国の黄砂には化学物質がいっぱい含まれているというし、それに多
少ではあっても放射能の影響があったら、咳で体外に出そうとする反
応があっても不思議ではない。
私の周囲や子供たちで咳をしている人は多いような気がする。
だから咳自体は問題ではないのだけれど、体力の消耗はどうしようも
ない。
呼吸器系の疲れが蓄積すると睡眠をとっても疲れが抜けなくなり、体力
ばかりでなく、気力も落ちてくる。
私などちょっとしたうつ状態になってくる。
漆器も注文や仕分けの間違いがあり、お客さんからの交換の要求など
もあり、さすがに3週間を過ぎると息が上がって、もう限界だなと感じて
しまう。
こうなると何もかも嫌になって、全部投げ出したい要求も芽生えてくる。
原発のことも含め、全部を忘れてしまいたい気持ちが内側で膨らむ。
知らないで過ごせたら、見ぬ振りをして余計なことを考えないで生きら
れたらどんなに楽だろうかと憧れる。
私を含めて多くの凡人たちにとっては、この状況は限界を超えている
のかもしれない。
これだけの不安と、これだけの多忙をかかえて平静に暮らすのは、とて
も難しいことだ。
最近、丸山真男の「日本の思想」という本を読みかけていて、多忙と難
しさのため一ヶ月経ってもまだ読みきっていないのだけれど、私の中
にも日本的な思考パターンが根強くあることを自覚させられている。
天皇制や同族会社のトップなどの上層と、地域や家族などの下層に
共同体的心情が色濃く残り、国家機構や会社の組織などの中層では
合理化が推し進められ、矛盾しながらも個人のなかにもそれが同居し
ているのが日本人の思考のパターンだと丸山は言う。
私なりに解釈すれば、濃密な親子関係に育てられた、気持ちをこめ
れば他人も必ず私を受け入れてくれるという期待と甘えに支えられた 
感覚だ。
日本人の感覚の敏感さは、他者の感情を自分のことのように感じ同調
する繊細さを育み、自然とも敵対せず一体になることを好み、社会の情
勢に沿って生きようとする。
私は岩手の出身だが親戚やTVでの報道を見ていても、今度の震災
で自然に対して恨みごとを言う人はあまり見かけない。
天災なら仕方ない、また別の生まれ変わりで違うがんばり方ができれば
いいというような、ほとんど神話の世界のような感覚が私たちの中に
はある。
私たちがこの世に生まれてきた中には、確かにそういう部分もあると
私も思う。
しかし、別の神話もこの世には存在する。
みんなでやっていれば、多少の矛盾も間違いもなんとかなり、後の人
たちがやってくれるのではないか。
現代の科学の巨大な化け物である原子力を前にしても、その神話を
信じている人たちが多くいる。
震災は天災だが、原発は人災だ。
これはもう理屈の問題を超えている。
知性に埋没するだけでも危険なのに、それに神話的な甘えが加われ
ば、まったく手のつけようがない。
グローバル化した世界経済の中、日本を含めて多くの国家が、なか
なか脱原発を積極的には言い出せない状況があるのは確かだ。
巨大な経済には巨大な利権があり、それに巣食う怪物たちが必ずいる。
われわれは尻尾をふんづけられ、日本の選択の余地はあまりに狭い。
そんな中で私たちに何ができるのか?
小さな閉じた流通で、小さな経済と生産者や自然との濃密な関係を
模索してきた晴屋だけれど、この大きな流れに翻弄されている。
数多くの努力が続けられている。
福島の学校の年間20mシーベルトという国の基準の改悪に対して、
多くの声が上がり、元の1mシーベルト以下になるように表土の除去の
費用を国が持つという発表が文部科学省からあったが、それには山
本太郎という人の芸能生命を賭しての主張も効果はあったろう。
週間金曜日というスポンサーを持たない雑誌には、教科書編集者とし
ての身の危険を冒して、文部省が原発についての表記を危険を感じ
させないものに変えさせてきた事実が発表されている。
池袋の新文芸座では6月3日から8日まで、核についての映画の特
集が組まれている。
これらの動きに共通のものとして感じられるのは、放射能への恐怖とし
て原発を否定しているというよりは、自らの生き方の問題として捉えて
いるということだ。
政治は理念よりは、どれだけ票が集められるか、国会議員の数を獲
得できるかという、数字の問題にすりかえられている。
経済はお金という客観的尺度が価値としてまかり通り、さらには実態
のない証券や投機が世の流れを左右し、その数字の動きに多くの
人が翻弄される。
巨大な社会の中では個人の思いなどには何の意味も無く、数の力が
すべてとなる。
イリイチという人は、絶望を見据えながら今生きることを享受するしかな
いと、言い切ってしまった。
私たちはまだそこまで希望をなくすことはできないが、原発神話を信じ
ることもとうてい不可能だ。
微力であることは分かっていても、原発という巨大なエゴに立ち向かう
もの、対極にあるものとして、個人の生き方を問うていくしか道は見えな
い。
今私たちはどこにいて、何に向かっているのか。
もうひとつの生き方があるということを示し続けるしか、話が下手で流行
りものを嫌い、目立つことを好まない徹底した個人主義者である私には
方法がない。
とまと畑のように小さくて地味だけれど素晴らしい物を作る余地は、まだ
ある。
この漆器や、野菜の美味しさが伝えられるうちは、私にはまだ希望が残
されている。
怒りと哀しみに、希望をない混ぜにして、生きつづけるしかない。

今、この一枚   その3.人生のゆらぎ 「エラ&ルイ」

エラ・フィッジェラルドは誰がなんと言ってもジャズの女王だ。
しっとりした情感に人が生きる憂いや喜びを歌いこめる。
スキャットではエネルギーを爆発させまるで雷神のように天を駆け巡る。
どちらかだけでもすごいのに、この人は一身に持って両立している。
私は女性の魅力は柔軟性とうるおいの2種類があると思うが、エラは完璧
にどちらも持っている。
しっとり甘い歌声に腰の強い表現が備わったら、もうだれもかなわない。
そして上手いだけでなく、無茶苦茶心根がやさしく性格がいい。
あまりにみんなに評価されるという以外、エラにケチをつけることは難しい。
そんなエラが、もう一人の性格の良い男性黒人ミュージシャンの代表のよ
うなルイ・アームストロングとの共演のアルバムは多数ある。
しかしこれは脂ののりきった二人の傑作中の傑作だ。
傷つき疲れた心を癒し、人の温かさを感じさせて、心に灯をともしてくれ
る。
音楽の魅力を凝縮させたような時が紡がれている。
伴奏のミュージシャンたちがまたすごい。
ピアノはオスカー・ピーターソン、ベースがレイ・ブラウン、ギターはハー
ブ・エリスで、ドラムがバディ・リッチ。
みんながソロとしても一流でリーダーにもなれる人たちだ。
けれど、誰も際立ったプレーなどしない。
この二人の歌うのをにこやかに見ながら楽しんでプレーしている様子が
手に取るように伝わる。
コードを単純に刻んでいるようで、音楽に起伏と流れを作っているエリスの
ギターは玄人の味を感じさせる。
ベースのレイ・ブラウンはいつもの力強いリズムの維持よりは、引き気味に
演奏しているが、時折メロディーを先行する音を忍ばせ、心憎い。
ドラムのリッチも、アフタービートを丁寧に叩いて、音楽に微妙なニュアン
スを加え、良質のスパイスのような味わいだ。
目茶目茶上手いオスカー・ピーターソンだが、スマートで軽身なプレーを
繰り広げる。
一見リズムを無視してコロコロと転がるような音を入れているが、そんな
外し気味の感じが心地よい。
音楽にゆとりと流動感を与えている。
そしてサッチモ(ルイの愛称)のトランペットが要所でいい味を出し哀愁が
ふりまかれる。
それにこの二人のボーカルが素晴らしいのだから、悪いはずがない。
全ての演奏が名演で隙がない。
しかし白眉は6曲目の「テンダリー」だ。
サッチモのトランペットから始るこの曲は文字通り「やさしさ」の極みのよ
うな調べに包まれている。
後半再びサッチモのトランペットとエラの掛け合いになるが、終了直前
最後のフレーズをエラがサッチモの物まねで締めくくる。
それが演出臭くなく、なんとも微笑ましい。
エラとサッチモのお互いの敬愛を感じさせる。
アルバム全体を通じて柔らかさとゆらぎが感じられ、癒し度は満点だ。
生きる楽しさを謳歌して、この上なく幸せな気分になれる。
さて、ここからが問題だ。
こんなに共演する人も、聴く人たちも幸せな気分にしてくれるエラなのだ
けれど、本人が幸せな人生を送ったかというと、どうもそうではないらしい。
生まれて間もなく両親が別れ、母親はニューヨークにエラを連れて行き、
そこで再婚する。
しかし母親は病死し、エラは十代でホームレス生活を始める。
マフィアや売春宿の下働きをして補導されたり、鑑別所に入ったりを
繰り返していた。
初めてのステージが転機となる。
17歳のとき、ハーレムのアポロシアターのアマチュアのコンテストに得意
のダンスで出場しようとしたが、直前のダンスデュオの演技に圧倒され、
急遽変更して歌を歌う。
そのコンテストで優勝してしまい、プロの目にとまりジャズの楽団の専属
歌手になる。
順調に歌手生活を送るが、病気で療養中の楽団長でエラの養父にも
なってくれていたチック・ウエブスのために共作した曲が17週連続で全
米一位となり、スターの仲間入りする。
以来ずっとトップスターであり続けた。
The First Lddy Of Jazzと呼ばれ、皆に敬愛され、グラミー賞を13回受
賞し、学歴は無いに等しいのにプリンストン大学などで名誉博士号をも
らい、ブッシュ大統領からは大統領自由勲章を与えられた。
栄光の座にあり、多くの人を歌声で魅了し、人の生きる喜びと幸福を歌
いあげた反面、エラは孤独であったかもしれない。
ツアーとレコーディングに明け暮れ、「とても恋どころではない」生活が続
いた。
二度の結婚に破れたのも、家庭など顧みられない多忙さのせいもあった
ろう。
その後も結婚詐欺にあったり、好きな男性に家一軒が買えるほどの高価
な腕時計をプレゼントしたなどという話も伝わっている。
あの幸せそうな歌声はどこからくるのか?
音楽や芸術の、そして人生の不思議と謎でもある。
苦渋に満ちた十代での体験は、性格の温かさや大きな包容力、歌を支え
る力として役にはたっているだろう。
私はエラが自分の人生を語る言葉を見聞きしたことがない。
しかしエラが、単に聴衆のためだけに歌っていたとは思えない。
人を幸せにする歌声は、まず自らが幸せでなければ出すことができない。
ステージやスタジオで歌う瞬間、エラは幸せだったに違いない。
それが彼女の人生のほとんど全てであったかもしれない。
自分を表現する喜び、それを聴いて評価してくれる人がいる喜び。
辛い経験は喜びを享受することを教えてくれたのだろう。
ニューオーリンズの不良少年だったサッチモはピストルを発砲して捕り、
収監された少年院の楽団で楽器と音楽に目覚めた。
他のミュージシャンも似たような経緯はあるだろう。
まだ強い黒人差別の中、白人に媚を売っているという逆風さえあったろう。
世に認められ、黒人への偏見を次第に溶かしてきた彼らの闘いと働きの
功績は計り知れないものがある。
荒んだ状況の中から彼らが選び取ってきた人生の結露が音楽になってい
る。
ベースのレイ・ブラウンはエラの二人目の夫だった。
別れてから4年の月日が経っている。
どんな思いで恋の歌を歌っているのだろうか。
複雑な思いをしているのは、日常にゆとりやくつろぎを求めようとする私
たち凡人の発想で、天才たちには彼らの論理があるかもしれない。
それを哀しいと思うか、羨ましいと思うか、痛ましいと思うか、ただ享受し
て楽しむか。
それは私たちの問題だ。
音楽は生きる力を与えてくれる。

晴屋の青い扉  その13 デジタルと電磁波

人間はみな、それぞれ個性があり、感じやすい処と鈍い処を持っ
ている。
私の場合、子供の頃から痛みや香りには鈍く、音には過敏な傾向
がある。
蛍光灯も苦手で、その下では落ち着かない。
頭に妙な緊張感があり、音がツンツンと聞こえる。
後に、オーディオに親しむようになってから、それが高周波ノイズ
のせいだと知るようになった。
人間は20kHz以上の高音はまず聴いても分からない。
しかし可聴範囲の20~20kHzの音に高周波が乗ると、明らかに
別のものとして判別ができる。
それが自然のものならホールの音場感や生の雰囲気をつかさど
る豊かな音の成分として聴こえ、ノイズなら音を冷たく金属的にし
て疲れるものになる。
料理で言えば、スパイスや香りにあたる、微妙で不思議な音の成分
だ。
CDが最初に世に出る時、夢の媒体と言われ、圧倒的物理特性で
オーディオ機器による音の差は無くなるのではないかと言われて
いた。
しかし、蓋を開けてみるとほとんど機器は音がひどくて聴くに耐え
ない。
頭が締め付けれらるように、痛くなってくる。
いわゆるデジタルノイズというやつだ。
私は、額の上のほうで感じる。
孫悟空のように針金で締め付けられるようだったり、真綿で全体を押
しつけられるようだったり、狭い範囲にぴりぴりした刺激があったり、
様々なパターンがあった。
私にとってはこの不快感が少ないのが、良いCDプレーヤーの第一
条件で音色は二の次になる。
当時、許せる物が極端に少なく、身分不相応な高級品を買ったりし
たこともあった。
今のCDプレーヤーは随分と改良され、極端にひどい高周波ノイズ
を出す物は無くなってきている。
もちろん技術や製品のランクによる格差はあるけれど、音楽を楽しめ
るようになってきた。
話は変わって、電磁波だ。
これも電波だけれど、高周波のノイズの一種だ。
先日お客さんと話していたら、高圧電線の下を通ったり、電子レン
ジを使うと頭が痛くなるという話を聞いて驚いた。
IHもみんなだめだそうだ。
そんなこともあるのかと聞いているうちに、しばらく前から気になって
いることを思い出した。
私は夜、店でパソコンに向っている時間が長いけれど、妙にボーっ
としたり、ピリピリと神経質になることが多い。
疲れのせいなのか、歳のせいなのかと思うほかに、漠然と電磁波の
影響もあるのではと感じていた。
それでインターネットで電磁波のこと、特に冷蔵庫との関係を検索
して調べてみた。
パソコンや蛍光灯、電子レンジももちろん電磁波を出しているけれ
ど、冷蔵庫は思いのほか影響が強いらしい。
主にコンプレッサーから電磁波が出ている。
私が座ってパソコンを使ってる場所は、大きな冷凍庫の真後ろで、
コンプレッサーの直近だ。
これでは逃げようが無い。
そう思って意識を額に集めてみると、デジタルノイズほどではないが、
ピリピリしたものを感じる。
しばらくすると、来る方向まで感じるようになった。
どうしようかと思ったが、備長炭が電磁波をカットすることを思いだし
額の前にかざすと、すっとピリピリが消えて楽になる。
私だけかと思い、店の他のメンバーにも試してもらったら、半数は
わかる。
でも「こんなこと分かりたくなかった」と、言われてしまった。
私だってこんな感覚に目覚めて、めんどくさい事を増やしたくは無か
った。
感じてしまうことは仕方ないけれど、いつも感じるというわけでもない。
身体が低調期から高調期に変り勢いのある時の方が感じる。
身体が低調になってる時の方が影響が大きいだろうから、感じる
時よりも感じない時のほうがダメージも強いだろう。
この感覚のずれの示唆するものは興味深い。
とにかく備長炭が効くことが分かり、ありったけの物を使って、バリアを
作って見た。
やってみると20センチ位の間隔の格子状のものを作れば、電磁波は
通れないようだ。
備長炭が磁場を作ってるらしい。
店の中をあっこっち歩き回ってみると、明らかに強いところがある。
隣との壁から強く感じる所がある。
思い出してみると、テレビやパソコンの背面になっている。
別の外寄りの壁からも強烈に出ている。
これはビルの配電盤の後ろだ。
冷凍のショーケースもかなり強く出ている。
あるものだけでは足りず、新たに取り寄せて、いろいろ置いてみた。
そうすると店の雰囲気が変った。
同じ空間なのに、静かで広い感じになった。
冷凍庫のコンプレッサーに近い側にも並べた。
肉の臭みが取れて、味が少しすっきりしたように思う。
蛍光灯は残念ながらまだ手付かずで、今後の検討課題だ。
ついでに枉駕にも出張してやってみた。
大型の家庭用冷蔵庫の上の方から出ているのを感じる。
今の冷蔵庫は下のスペースを確保するためにコンプレッサーが上
にあるという。
内部の上に備長炭を置くことで解決した。
備長炭は電磁波吸収してマイナスイオンをだすという。
電磁波をカットして、冷蔵庫の臭い消しに役立つ二重の効果がある。
何も無い壁からも出ているが、どうも配線があるらしい。
出入り口に近い柱からは何も無いはずなのに、かなり強烈に出てい
る。
鉄筋は虫かご状に入っていて、電磁誘導を起こして強く出ることが
あるらしい。
マンションや鉄筋コンクリートの住居は要注意だ。
枉駕では、この柱の近くの植物は育ちが悪かったり、枯れたりする
という。
というわけで、発展的な話や面白いことは何も無いけれど、とにかく
備長炭は効果がある。
テレビやパソコン、冷蔵庫や電子レンジ、なんとなく気になる場所に
置いておくだけで、確実にその場を良いほうに変えてくれる。
ただし、国産のものでなくてはダメらしい。
国産は目の詰んだ馬目樫(ウバメガシ)が原料だけれど、中国やベ
トナムは似た植物だが、電磁波はカット出来ないそうだ。
こんなことは知りたくなかったと思っても、読んでしまったらもう遅い。
けれど、捉われたら重くなる。
知っていれば面倒なことも多いかもしれないが、長い間生きていれ
ば、その差は結果に現れる。
嫌な物を避けるというよりは、命の嗜みとして追求してみると楽しい
と思う。

晴屋の青い扉  その15 電磁波の続き

電磁波の影響の問題は微妙だ。
全然関係ない人も、敏感に反応する人もいる。
健康への影響も、白血病の確率が増えたり、脳の血行が悪くなる
という報告があるが、全員そうなるわけではない。
心配すれば限はない無いが、不安になって捉われたらかえって健
康に悪そうだ。
なんとなく電磁波を感じられるようになってしまった私の感覚の範囲
では、電磁波があると頭の前の方に緊張感がいつもあって、集中が
しにくい。
ボーっとして考えがまとまらず、だるさが続く感じだ。
電磁波は電波の中ではFM、短波AM(中波)等より周波数が低くく、
脳波と大体同じ位だという。
脳波は、脳の神経の中をイオン化物質が動くことで発生するらしい。
その脳に電磁波が絶えず浴びせられていたら、何らかの影響はあ
るだろうと思う。
訴訟大国アメリカでは、送電線の下400m以内には学校などは作っ
てはいけないという法律があるらしい。
しかし、テレビや冷蔵庫、電子レンジ等の電気製品、携帯電話など
電磁波の発生源にはこと欠かない。
私の個人的経験から言えば、不安にかられて潔癖に避けようとしたり、
全く無い物として無視するのでなく、添加物と同じようになんとなく
一歩避けるように意識しているうちに、自分の折り合う地点を自然に
みつけられるようになると思う。
前回少し書いたたけれど、備長炭を使っての電磁波を避ける方法の
追加を報告してみたい。
お客さんで、電磁波の測定器を持っていて、店に持ってきてくれた人
がいた。
まだ対策をしていない蛍光灯からはやはり出ている。
しかし本来かなり多量に出ているはずの大型の冷凍庫からは全く
出ていないと、不思議がっていた。
備長炭が効いているのが実証できたのと、私の感覚があっていた
ことが分かって嬉しかったけれど、肉や魚の売れ方が伸びているの
は、無意識にしろお客さんたちも分かっているのではないかと思う
のだ。
もう一つの実証例は、電信柱にあるトランスからのものだ。
あるお客さんに寝ている二階の部屋の目の前にある電信柱のトラン
スからの電磁波が心配だと相談された。
行ってみるとやはりピリピリと感じる。
それで、備長炭をトランスのある方向の鴨居や窓に十数本場所を指
定して置いてみた。
私の感覚ではほとんど感じなくなった。
後日電話が来て、東京電力が来て、電磁波を計っていったら、窓の
外では案の定かなりの値が出ていたが、室内では値が出ない。
それで、備長炭を外してみたら、窓の外と同じ値になったという。
電磁波はそんなに危なくないといようなパンフレットを置きながら、こ
れで電磁波が消えるならいいですよねと、不思議がって帰っていった
と言って、感謝してわざわざ電話を入れてくれた。
私が電磁波を感じるようになったのは、明らかに体力の衰えが原因
で、それを補うための感覚だから良いのか悪いのか分からないが、
それでも他人の役にはたつこともある。
電磁波も備長炭があると、カットされ、マイナスイオンに変わり、その
場所のエネルギーを高める。
物事には何でも両面あって、悪いものも良く出来るし、良い物も使い
方によっては害になる。
知識でなくて、自分の内側の姿勢を保っていないと何も意味が無い。
その感覚を伝えるのは難しいけれど、その努力を続けているのが晴
たちに支持されている理由だと思う。
品物は後から着いてくるものであり、伝えるための手段としてある。
それだから、売ることが第一義にならず、経営的に不安定なのが
弱点にもなる。
物事には全く両面がある。

旬の音楽と野菜とからだ 5月 その3 緑の風と狭間の開放

旬の音楽と野菜とからだ 5月
その3 緑の風と狭間の開放

冬のような寒さが心と体をしめつけ、生暖かい風が、感性をふや
かして、自分を見失わせる。
この季節を楽しく過ごし続けるのは、本当に難しい。
毎年気候の変動の巾は大きくなって、荒々しく私たちを翻弄する。
「五月晴れ」という言葉も、五月が無条件に心地よいのではなく、
たまにしか心地よい日がないので、特に印象に残るという意味
かと疑いたくなる。
普段は永続性のあるものを求め、つかの間の快には否定的な私
だけれど、この季節は合間の楽しみで繋いで、息をついていくし
か生きる方法がない。
この季節の変動での感性の混乱や錯乱に近い音楽は、シューマ
ンだろうか。
躁と欝が交錯し、狂おしいもだえと安らかな平穏が同居している。
現代に近い混沌とした感覚に共感や納得はできても、救いには
ならないのであまり聴く機会はない。
故意に欝に近づく人はあまりいないだろう。
それと対極のくすみのない開放はなんといっても、ヘンデルだ。
この人は、音に苦労や努力の跡をまったく残さない。
広い空間に放たれた伸びやかな音がまた次の音を呼び、見事に
展開していく。
新緑を渡る風が、木々の葉を波のように揺るがせ、光をきらめか
せ、尽きることなく新しい表情を作っていくのに似ている。
厳しい寒さも、辛い暑さも、人の世のわずらいも何もないような、
純粋な開放がある。
人間の苦悩を芸術で昇華しようとするのも大変なことだが、それ
を見せず、感じさせずに作品を作るというのも、たやすいことで
はないだろう。
天才であるとともに、間違いなく人間としての度量の大きさを持っ
ている。
荒々しい春の天気の合間、梅雨の間のひと時の晴れ間、梅雨明
け後の二三日の心地よさにこれほどぴったりの音楽はない。
長くは続かない狭間の開放ではあっても、その一瞬のリセットの
心地よさは、何にもかえがたい。
ヘンデルはバッハと同じ年1685年にドイツに生まれている。
20代後半からイギリスに渡り帰化した。
ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルは、イギリスでジョージ・フレデ
リック・ハンデルと呼ばれるようになった。
ドイツ名は厳しいが、イギリス名は親しみやすい。
同じ人物でもずいぶんと印象が違うものだ。
ドイツでは、ハノーファー選帝侯の宮廷楽長だったが席を置いて
イギリスに渡り、不義理をしたままイギリスに帰化してしまった。
ところが国王が亡くなり、次の国王になったのがそのハノーファ
ー選帝侯だった。
神経が太そうなヘンデルでもあせっただろう。
それで終わらないのが流石で、新国王の気をとりなすために作
ったのが、「水上の音楽」だと言われている。
これだけの傑作を作れる音楽家を遠ざけることはできなかった。
一見無邪気で屈折もなさそうだが、それなりの苦労はあったの
だろう。
キリストの生涯を聖書の言葉を使いながら作ったオラトリオ「メサ
イア」では、有名なハレルヤの合唱を聴いて感激した国王が
立ち上がり、聴衆も全員ならって立って聴いたというエピソードも
ある。
芸術家としての生まれつきの華を持っている。
この二つが代表する曲だろうけれど、おびただしい数の作品が
あり、どれもがそれぞれの個性があって、聴いていて楽しい。
国王の舟遊びのための「水上の音楽」は、短いイギリスの夏を謳
歌する開放と叙情に充ち、ゆったりと水辺を渡る緑の風の匂い
さえ感じる。
ジョージ・セルがロンドン交響楽団を指揮したものが一番のおす
すめだ。
「メサイア」は、壮大で迫力ある演奏も可能だけれど、一般の大
衆のためというよりは、教会で選ばれた人たちのためのしめやか
な演奏の雰囲気を持つ、ガーディナー指揮のものを好ましいと
思う。
名曲のバイオリン・ソナタは、グリュミオーの古い録音を超える
ものをまだ聴いたことがない。
ヘンデルの大らかな男らしさをグリュミオーが心優しく再現する。
合奏協奏曲集にも美しい音楽が詰まっている。
ゆったりした楽章の哀愁が心憎いアーノンクールと、さわやかな
推進力が若々しく胸がすくようなピノックのどちらもすばらしい。
どうしても欝に近づかないと気がすまない人、あるいはもう落ち込
んでいるからとことんまで行って帰ってこようと思う人のために、
シューマンも一曲ご紹介しよう。
「クライスレリアーナ」はシューマンの若い情熱が封じ込められた
ピアノ曲だが、才能と個性がもっとも強く感じられる曲だ。
感情の振幅が大きいマルタ・アルゲリッチと、霊感で演奏したと
しか思えないホロビッツが凄いと思う。
果物も乏しく、旬の野菜にも頼りにくいこの季節は、音楽が心と
からだの栄養になる。

今、この一枚   その2.生まれ出る音  「モーツァルト後期交響曲集」

今、この一枚   その2.生まれ出る音  「モーツァルト後期交響曲集」
マッケラスとスコットランド室内管弦楽団

モーツァルトほど完璧な音楽を作れた人はいなかった。
作為や努力の跡をまったく残さず、あるがままのようでありながら、人
の心を誘い出し、過去の思い出をよみがえらせたり、遠い憧れの美
しさをみせたりしてくれる。
いや、そんな人間の生業を通り越し、ただ音に浸るだけで自足して
しまう。
純真な心を持ち、それをそのまま音楽に写し取ることができる唯一
無二の天才だったに違いない。
しかし聴いている私たちも、演奏する人たちも、そのレベルまで純
真になることは難しい。
だからモーツァルトの、「再現された」音楽では演奏する人によって
その心の置き所がそのまま音になり現れてくる。
楽しいおしゃべりのような活気あるもの、内にパトスを秘め悲劇を内
包したもの、天上の調べのような現実世界を通りこした純粋な浄化
を感じさせるもの、喜びを持ちながらもその中に達観やため息をひそ
ませたもの、その他ありとあらゆる感情が表現されうる。
そして聴いている私たちも音の間から好きな感情を汲み取ってひた
ることができる。
どの曲も、どの演奏にも素晴らしいところがある。
しかし反面、どれにも少しもの足りなさを感じる。
自分の心情にぴったりの音を求めて、この音の強さはちょっと違うな
とか、このフレーズはもう少し柔らかく表現してほしかったとか思って
しまう。
モーツァルトに決定的な演奏がでにくいといわれるのはそういった事
情からだろう。
そんな解釈の問題を通り越して、ただひたすらモーツァルトの音に
ひたっている快感を感じさせてくれるものとなると、なおさら難しい。
わざとらしさがないだけでなく、すべての音が均等に息づき、とどま
ることを知らず、行く先も知らず、自足しながら、喜びと永遠を感じさ
せてくれなければならない。
私がいま一番お気に入りのモーツァルトはサー・チャールズ・マッケ
ラスという人が指揮したものだ。
昨年高齢でなくなったこの人は、サーの称号がついている。
偉い人なのだ。
オーストラリア生まれなのだが、演奏家としてだけでなく学者としても
多くの足跡を英国で残し、評価されている。
優れた録音も多く残している。
その割には一般的な知名度が少ないのは、権威的ではない気さく
な人柄と、人の上にたって仕切ることを好むプライドの高さを感じさ
せない上品さのためかもしれない。
特定のメジャーなレーベルと契約してしっかり宣伝して売り上げを伸
ばし、人気を上げながらさらに上のポジションを目指すなどという普
通の音楽家ならしそうなことは、この人とは無縁だ。
カラヤンとは対極に位置する。
頼まれればマイナーなところでもやって、条件の悪い状態でも水準をは
るかに越す演奏を続けた。
ここぞという時の集中力は凄まじく劇的であり、しかも音楽が硬直せ
ず常に息づき、ゆったりした楽章では叙情性も人一倍引き出す。
実際にどんな人であったかは知らないが、温厚で、頭が良く、古いこ
とのよさも見据えながら、新しいことにも積極的にとりくむ姿勢を感じ
る。
知性と感性、古典と革新を両立というよりありきたりの構図ではなく、
人間の理想の生き方のひとつを自然体で体現しているようで、私には
あこがれの人だ。
整体の野口晴哉は「子供の天心には(当然のことなので)価値がな
いが、年をとっての天心には価値がある」と言っている。
大人になり、社会人になって、汚れても濁ってもいないということは、
まずありえない。
そこを通り越した鍛えられた本物の純真さを持つ天心爛漫な人だ
から、モーツァルトにはうってつけといえる。
オーケストラは、スコットランド室内管弦楽団。
CDのジャケット写真をみてみると、みな若く溌剌としている。
人数は少ないがいっしょに音楽する喜びを共有している感じが伝わ
る。
マッケラスは主席客演指揮者を努めていて、手塩にかけて若者たち
を育てていたようだ。
演奏はマッケラス得意の現代楽器のピリオド奏法による。
オリジナル楽器や古楽器といわれるモーツァルトなどのその時代の
楽器を使うのではなく、音量や音の強さなどがしっかりでる現代楽
器を使うけれど、演奏法はビブラートをほとんどかけない音の立ち
上がりや純度を重んじる演奏法だ。
音楽をひたすら流線型に滑らかにし、音の厚みを求めたカラヤンとは
この意味でも対照的だ。
はじめて聴く人は、おもちゃ箱をひっくりかえしたような音の洪水に驚
くかもしれない。
しかし濁りない澄んだ音たちが明滅し、うつろい、旋律が生起してい
く快感をひとたび感じ取ると、癖になるに違いない。
人数が少ないので強奏でも透明感が失われず、弱奏ではしっとり
とした表情が手に取るように伝わる。
モーツァルトの天才を感じるのにもっとも相応しい演奏、現代に生き
る私たちにもっとも近しい演奏だと思う。
美しく勢いのある音が波のように次から次に押し寄せる快感を言葉に
するのは難しい。
曲は第38番「プラハ」~第41番「ジュピター」までの4曲だ。
モーツァルト最後の極めつけの名曲たちだが、なかなか決定盤はみ
つからなかった。
その中では「プラハ」は、ワルターの指揮したものが、生命感と死の
虚無と甘美を両立した演奏でこれ以上はないだろうと思っていた。
マッケラスには生も死もない。
ただ音楽にひたる喜びがある。
それが意識ではなく、もっと深いところをゆり動かす。
颯爽とした演奏なのに、なんとも哀愁を感じさせるところが多々あって
胸に迫る。
ワルターが良質の知性に訴える演奏なら、音の力を信頼して感覚の
深いところに火を点す演奏といえる。
「39番」は炸裂するリズムと推進する音の饗宴。
音にひたる愉悦の極みをマッケラスは見事に切り出す。
「40番」はセルのライブ・イン・ジャパンが私にとって最高の演奏だ。
あの一点のゆるみのない、しかも力が入っていない緊張を超えるも
のはない。
マッケラスは短調のこの曲にも悲劇といった人の生業を持ち込まな
い。
激情と詠嘆、痛切と甘美がないまぜになって疾走する。
それにドラマを感じるのは私たちの自由だが、ここにあるのは美しく
純化し、変転する感情そのものだ。
セルと共にもっともたいせつな演奏となった。
そして圧倒的なのは第41番「ジュピター」だ。
第4楽章のフーガは聴いていて久しぶりに背中がぞくぞくした。
アバドが若いときに指揮したものも第4楽章がよかったが、そのため
に前の3つの楽章を抑えて演奏して効果を狙っていた。
マッケラスはそんなことはしない。
この曲にかけるモーツァルトの気迫が最初から前面に押し出されて
いる。
第3楽章のメヌエットなども宇宙のゆりかごで星々の運行を眺めてい
るような大らかさだ。
そして第4楽章。
三十人ほどの団員たちが持てる力をだしきって、気迫に充ちた一瞬
一瞬をフーガの旋律で積み重ね、高みへ高みへと昇りつめていく。
炸裂するティンパニー、うなるホルン、きしむ弦。
息をこらして聴き入る私たち。
どこにも力みも、破綻も、余分もない。
すべてを出し切っているメンバーも、それを引き出したマッケラスも
ただ、音楽の喜びの中にいる。
創造の瞬間に立ち会う緊張と愉悦を、私たちはCDを通して味わうこ
とができる。
なんと、幸せなことだろう。

晴屋の青い扉 その53 いま、できる事

晴屋の青い扉 その53
いま、できる事

私の個人的楽しみの最大のものは、自分のオーディオシステムでの音楽鑑賞だ。
貧しい八百屋なのでそう高価なものを買うことはできないが、お小遣いの大半はCDとオーディオに
なっていく。
新しい音楽、知らない演奏に出会い、触発され、人間の可能性や生きる楽しさ、素晴らしさを感じ
るのは何よりも喜びだし、自分の身をふりかえって生きる指針となることも多い。
そして、それを聴くためのオーディオも手をかけ、工夫し、エネルギーを注げば、結果で答えてく
れて、音の微妙なニュアンスや演奏者の息づかいが生演奏よりも感じられる瞬間があるほどになる。
コンサートに行く時間がなく、日常のなかに音楽を持ち込むしか鑑賞の手立てがない私には、不可
欠のアイテムとなっている。
こんな私だから、電気のない生活など考えることもできない。
真面目な枉駕さんでは、ホールでのBGMをやめ、調理場での本多さんの楽しみである、ジャズを聴
きながらの仕事も、節電のため一日CD1枚に制限しているという。
偉いなあ。
私には到底やりようがない。
オーディオの消費電力は50Wほどで、電球1個消して楽しめばいいかといいわけしつつ続けている。
今年は震災前から、何故かベートーベンに浸っている。
頑張らなくっちゃという予感があったのだろうか。
辛いことが多い時期、この音楽に励まされ、癒され、新しい力をもらって、かろうじて日常をこな
していく。
そんなことの連続の一ヶ月だった。
茨城の私たちの生産地ではいまのところ放射能の危険な数値は検出されていない。
しかし、身体の反応で多分大丈夫とは感じても、売り続けるのにはそれなりに勇気や覚悟が必要だ
ったし、確実に気力は消耗した。
それでも多くの人が普通に、あるいは普段ほうれん草を買わない人があえて買ってくれたりして、
てごたえはあった。
晴屋でも照明は落として半分にしているが、うす暗い方が私には好みで、このままが許されるなら
ずっとこのままでいいかなと思ったりする。
こういう時には、その人の持っている価値観があらわになるし、信頼関係も試される。
生産者の近況報告と共に、お客さんたちに提案しているのは、自販機を止めましょう、ということだ。
何人かに話していたら社民党の福島瑞穂党首の知人という人もおり、「話てみるわ」と言ってくれた。
みんなで唱えていれば可能性があるかもしれない。
自販機にかかる電気代はすごい。
昔の機種だと月2~3万円。
最新の機種でも数千円かかる。
こんな無駄が許されているということ自体がおかしい。
なければなくてもすむ物に、目先の便利さのためにエネルギーやお金をつぎこんでいる。
しかし、今個人で持っている人は「お宅は一等地です」とか営業マンにだまされ、たいした利益もで
ないのにうまく利用されている人がほとんどだろう。
欲に目がくらんだと言ってしまえばそれまでだが、それまで止めろとは言えない。
ただし暖めたり、冷やしたりということはやめるべきだろう。
電気代の大半はこれに費やされている。
一人では無理だが、みんなでなら実現可能なかなりに有力な節電対策になるだろう。
私がさらに目論むのは、過剰からの脱却だ。
自販機が本当に必要で役にたつこともあるかもしれない。
しかしあまりに多すぎるし、性急に必要なときは、温かいとか冷たいとかそんなことは問題にならない。
口当たりの良さやとりあえずの売り上げといった小手先のことでない、本当に必要な最低限の物で、
的確な効果をえるような、本来の意味で実用的な生活文化が望まれている時代だと思う。
オール電化や夜間電力は、直接原発とつながっているようなものだから、ノーと言わなければならない。
少しくらい暑くても、寒くても生き物である以上、耐える力を持っているはずだ。
経済やエネルギーの問題以前に、
その力を弛緩させていては、全力で個性を生かして生きていることにはならない。
休息し守らなければならない時ももちろんあるけれど、溌剌と生きるためには余分なものがないほう
がいい。
今度の原発事故は、そんなことも人間に問うていると思う。
もう一つ、過剰には知性の暴走もある。
卓上の理論の暴走の一番の分かりやすい例が原発だ。
理論自体は正しいかもしれない。
しかし前提条件が狂えば危険な暴走が始る。
施工も寄せ集めでやっつけ仕事、定期点検も素人ばかりでいい加減、取り締まるはずの保安員も畑
違いの文系が平気で来てその場の書類しか見ない同じ穴のムジナ、部品の交換も放射能にまみれ
るため手順もふまえない手抜きになる。
これでは事故が起きない方がおかしい。
廃炉にしようと思っても解体には建設の数倍のコストがかかると言われている。
そんな費用はないから止めておくとしても、放射能まみれでボロボロになっているから常に水を循環
させなくてはならない。
それがほぼ永遠に続く。
原発が発電するエネルギーより多くを使わなければならない。
後世に処理不可能なゴミを残し、自分のツケわ払わせようというのが原発だ。
目先の利益を追った暴走としかいえない。
しかし反対派にも暴走はある。
不必要な過剰反応、これも知識に縛られた暴走といえる場合がある。
米やトイレットペーパーの買いだめと本質的には変わらない。
恐怖は人の目をくらませる。
人間を思い通りに動かすには恐怖に訴えるのが一番てっとり早い。
私は時々、だれかがあえて混乱を作り出し、それによって世をコントロールしているのではないか
とさえ思ってしまう。
それもまた神か、宇宙の意思で、人は試されているのかもしれない。
戦争も、宗教の争いも、野生動物の世界にはない。
知性を持つ人間だからこそ、知識に縛られる。
知ることによって物を支配するかわり、知ることや物に縛られ、それから逃れられなくなる。
生まれた場所を愛し、その文化を大切にするのは当然のことだ。
持って生まれた可能性を全て生かして生きたいという思いもまた当然のことだ。
知っていることを試してみたいというのもある意味自然かもしれない。
しかし知性の暴走と健全な生活の境目はどこにあるか。
厳密な境はどこにもない。
また人によっても基準や許容量が違う。
それが余分であり、過剰であると見極める眼を一人一人が育てなければならない。
大きな社会で、過剰な情報の中、自分の存在意義と、価値と、方向を見定めることは難しい。
私にはそれは知性によるのではなく、本能的なものの自足のなかで育まれるものだと感じられる。
潜在意識と意識が分離したとき、知性は暴走を始める。
義務感や必要性、社会の要請や強制で自分を見失うことは多い。
テレビは短絡的娯楽で、とりあえずの楽しみを提供し、自分でものを考えない大衆を量産する。
世の中がいい方向に向かっているとは言えない。
しかし、赤ちゃんの無垢な笑顔につられてこちらにも笑みがこぼれる時、倒れそうなおばあさん
に思わず手を差し伸べる時、子育ての喧騒のなかで疲れと安堵を感じる時、音楽の感動の内に自
分の生きる道をみいだした時、私たちは限りなく本能と意識が近接した充実の中にいる。
今私たちが考えたり、心配したりしている間も原発の現場でいのちをかけて働いてる人たちがいる。
推進派の人ばかりではないだろう。
お金のためという人もいるかもしれない。
しかしその人たちにも家族はおり、恐怖と心労ははかり知れない。
私たちは直接の放射能の死の危険からは遠いところにいる。
私は科学者でも医者でもないから断定的なことや明確なことを言うことはできない。
しかし比較的近い福島でも30年後の癌になる率が何パーセントか上がるということになるだろうか。
社会全体からみれば大きな数字になるのだろう。
しかし全員がなるわけではない。
癌は精神的ストレスや食生活、添加物などの影響も大きい。
恐れているよりは今の自分を維持し、より敏感でしなやかな身体と心の感受性を育て、異常や排泄
の反応は自然の経過として静かにやり過ごし、自分の個性の実現と次の世代に少しでもよりよく生
きる余地を残す努力をしなければならない。
難しい時代だからこそ、やりがいもある。
電気も、放射能も、添加物も、その他の多くのことも、オール・オア・ナッシングではない。
人間にも、自然界にも許容量がある。
まったくの安全から、いのちの危険までの間に無限といっていいほどの選択肢がある。
その中で自分や子供たちの心や身体を健やかに保ち、その伸びしろを確保することが求められる。
恐れ、弛緩していたら、原発や東電や、世の流れに圧倒され負けたことになる。
私をほとんど褒めたことのないお客さんが最近の私の仕事ぶりをみて、「頑張って」と声をかけてくれた。
人の過剰を指弾する私だが、明らかに仕事しすぎで過剰の極みかもしれない。
しかし少なくとも素直に生きているし、意識と潜在意識は別のところにはない。
生きる喜びも、希望も、音楽を聴くささやかで大きな楽しみもある。
人はいろいろな状況のなかで、生きていける。
子育てに悩む若いお母さんたちにその言葉を返したい。
「負けないで、頑張って」と。

旬の音楽と野菜とからだ 4 月 その2光の季節の秘めやかな音 

旬の音楽と野菜とからだ
その2光の季節の秘めやかな音 
フォーレの音楽

冬を思わせる寒い日の翌日、夏の日差しと照り返しが私たち
をせき立てる。
冬と夏がせめぎい、光と影、熱と冷、陽と陰が交錯する。
野菜も端境期。
身体を温める滋養たっぷりの冬の野菜と、身体を冷やし鎮める
夏の野菜が入れ替わる。
けれど、天候が激しく変動し、何を食べていいか分からない。
何を食べてもいいし、かといって、何を食べてもこれだという満足
感が無い。
季節だけでなく、私たちの体内でも、葛藤がある。
イライラし腹が立ちやすかったり、ボーっとして何も考えられなかっ
たりする。
ギュッと凝縮して何かをやりとげようとする集中力と、外に向かっ
てエネルギーをばら撒き、開放するエネルギーが、ここでもせめ
ぎあっている。
個性としてどちらが色濃いというのはあるけれど、この二つの力
の方向は誰にでもあるものだ。
そういう意味では、もっているもの、品格や生きる姿勢が顕にな
る季節だ。
そして、これからは光の季節。
新緑にまばゆいばかりの光がふりそそぎ、私たちの眼を楽しませ
る。
緑をなびかせ、渡る風も心地良い。
しかし、意外なほど紫外線が強く、目が疲れやすい時期でもあ
る。
新緑は紫外線をよく反射するし、私たちの目はまだ夏の強い日差
しに慣れていない。
目の疲れは、呼吸器に影響する。
迷走神経が緊張し、胸が狭まり、酸素を吸収しにくくなり、疲れや
すくなる。
それがさらに進行すると、睡眠の質が悪くなって、精神的にも肉体
的にも疲労していく。
内向的にもなりやすい。
この季節は、外に出て活発に楽しむ時と、室内で静かに過ごす
時の切り替えが必要だ。
いくら家にいても、テレビを見ていたり、パソコンに向っていたの
では意味が無い。
静かに音楽を楽しみ、心と身体を休める。
そんな時に一番ぴったりな音楽はフォーレだ。
この人の音を聞いていると、いつも窓辺の情景が目に浮かぶ。
窓から眺めるガラス越しの水々しい光景だったり、深窓の令嬢
のような淡い人の影だったりする。
絵画で言えば印象派の絵で、物の実体より表面でうつろう光を
とらえている感じだ。
直接的、情熱的、下品や粗野とは正反対の、内に秘める美しさ。
そんな音楽が、目が疲れ、内向きに、少し欝っぽくなった気分に
よく合う。
行き過ぎれば、袋小路に入りこみ病的にもなる感傷的な気分も、
ゆったりと外から眺めていればそれはそれとして楽しめもする。
フォーレは、オペラが書けなければ一流ではないと言われた19世
紀末のフランスで、室内楽を中心に、奥ゆかしい美しさを静かに追
求めた。
微妙な音の使い方や転調や気分の屈折が多く、決して分かりや
すい音楽ではないけれど、一度入り込んでしまうと抜け出せない
魅力がある。
バイオリンソナタ、ピアノ四重奏曲、ピアノ五重奏曲など、どれも
がレースのような繊細で透明な美しさに充ちている。
しかし不思議に、フォーレを聴きたいという気持ちが先で、演奏者
は二の次になってしまう。
録音は探すと結構たくさんあるけれど、レコード会社によって傾向
がはっきり分かれるのが面白い。
エラートというフランスで生まれたレーベルの物は、少しクール
に外から眺めるようでありながら、共感も強い。
EMI盤のコルトーたちの古い録音は音楽と一体になって、独特
情緒がある。
デュメイたちのEMIの新しい録音は感情の起伏は強いけれど、
どこか突き放した感じ。
ハイペリオンというイギリスのレーベルでは、若々しく水々しい音
が追求されている。
どれもがいい物を持っていると思う。
気候も、気分もいろいろあるけれど、窓から差し込む柔らかにうつ
ろう光がフォーレの音だ。
遠い目をしながら、ボーっと外を眺めて休むのも心地いい。
「カウボーイ・ジャンキーズ」というカナダのロック?のグループの
CDもこの季節のお奨めだ。
ちょっとハスキーな女性ボーカルが内なる感情の波を静かにな
ぞっていく。
淡々として、物憂げで、心地よくやさしく、力強さも感じさせる音が、
忘れていた何かを思いださせる。
6月に入るとブラームスが圧倒的によくなるけれど、梅雨前のこの
季節もいい。
整体法を創設した野口晴哉という人は音楽も好きで、指導によく
利用していたというけれど、「頭が疲れた時には、ブラームス」と
書き残している。
私も根を詰めた仕事の合間にブラームスを利用している。
この季節はなんと言っても、交響曲2番とバイオリン協奏曲だ。
北ドイツに住むブラームスが、イタリアの明るい光に導かれて書い
たこの2曲は、伸びやかで柔らかな雰囲気がある。
ブラームスの「田園」と言われる第二交響曲は、特にいい演奏が
多い。
イタリア人の指揮者ジュリーニはロサンゼルス・フィルをたっぷりゆ
ったりと歌わせ、明るくうつろう光の美しさを捉えた。
流れる音に柔らかく浸れる。
均整のとれた美の極致を求めた完全主義の指揮者セルは、クー
ルを通り越して熱い精神の高揚にまで至っている。
聞いていると元気になる。
最近のお気に入りは、ヴァントという老指揮者のものだ。
一音一音ていねいに音を紡いでいるのが伝わってくる。
その音の誠実な美しさを追いかけている内に、気が付くと音楽の
巨大な渦に巻き込まれている瞬間を向え、ぞくっとする。
素朴で洗練され、純真で計算しつくされた、本物の芸術作品だ。
バイオリン協奏曲はこの季節はなぜか、女性が演奏したものが好
みに合う。
古い録音だが気迫に満ちたジャネット・ヌブー、ゆったりした品格
のミシェル・オークレール、強い緊張感がかえって情緒を浮き彫
りにするアンネ・ゾフィー・ムター。
CDで聞く音楽には、自分で身の回りの雰囲気や環境を形作る楽
しさがある。
目の疲れを積極的に取る方法しては、目に熱いタオルを乗せて
休むのがおすすめだ。
楽な姿勢で、時間は20分。
途中、温度が下がるので、熱いお湯を洗面器に用意しておき、
時々漬けて絞る。
大抵こめかみを通る神経もこわばっているので一緒に暖めると
より効果的だ。
野外での目の疲れだけでなく、パソコンの疲れにも有効だ。
自分でやるより、誰かに傍でタオルを変えてもらったほうがより効
果が高い。
自分の身体ときちんと向き合うための貴重な時間になる。

今、この一枚   その1.春の珍事

「But Beautiful」

スタン・ゲッツとビル・エバンストリオ

時は春。
寒さにちぢこまって耐えていた木々が芽吹きはじめる。
暖かさにさそわれ、私たちの心も身体もそぞろうごめき出す。
いつまで寝ても寝たりないようなほんわりとボーっとした時と、春の嵐
のような衝動的な激しい欲求が現れたりする。
過ごしやすいはずなのに、なんとなくザワザワと落ち着かないのが
春の感覚だ。
こんな時にぴったりの音楽は、クラシックならモーツァルト、ジャズなら
スタン・ゲッツだろうか。
屈折や努力の跡を感じさせない伸びやかで柔らかなフレージング
がこの人の持ち味だ。
誰にでもできそうなのに、実際には誰にもできない。
流行、すたりの多い音楽の世界で、ずっと第一人者であり続けた。
新しいものを吸収して自分のものとし、さらに次の段階へとすすめる。
間違いなく天才だ。
そのゲッツが、また一人の天才ビル・エバンスと競演したレコードは
少ない。
繊細だが、内部に激しい革命的ともいえる欲求を持ち、プライドの人
一倍高かった二人がそう合うはずもない。
積極的な競演ではなく、たまたま話があり、時間もあったからやった
という程度だろう。
しかし、まごうこと無き天才の二人。
やるからにはきっちりと自分の足跡を残している。
一曲目は「おじいさんのブルース」。
リリカルなフレーズが連なり、美しい。
しかしこの二人の実力としては並みの出来だ。
特には、工夫や冒険は感じられない。
問題は2曲目。
出番待ちに苛立ったかスタン・ゲッツが予定になかった自分の曲を吹
き始めた。
曲名も「スタンのブルース」。
自分の第2の故郷ともいうべきスウェーデンでのライブで、ちょつとく
らいのわがままは許されると思ったのか。
最初はエバンスもアドリブで本来の曲に帰ってくるのかとポロン、ポ
ロンとコードの伴奏を入れていたが、戻る気がないとわかると、すっ
かり放棄して弾くのを止めてしまう。
やりたければ勝手にどうぞそのかわり落とし前は自分でつけろよ、と
いうわけか。
スタンも、いくらでも出来るだろう、普通俺がやったら付き合ってやる
だろ、と思いながらもプレーを続ける。
バックのベースのエディ・ゴメスやドラムのマーティ・モレロたちは焦
っただろうが、そこは大人で必至にサポートする。
ゲッツは果敢にプレーを続け、一人のソロで演奏しきってしまう。
天才同士の意地の張り合いだ。
次の曲は「But Beautiful」。
まったく何事も無かったかのように音楽が息づき、美しい時が紡がれ
る。
事情を知らないその場にいた人たちはエバンスが弾かないのをただ
の演出としか感じられないだろう。
二人とも、プロだ。
そうして演奏はすすみ、「ピーコックス(孔雀)」という後半の曲でゲッ
ツは渾身の美しいソロを聞かせる。
バラードには定評があったゲッツの生涯のうちでももっとも美しいも
ののひとつではないだろうか。
終わりの拍手とともに「ハッピー バースデイ  ビル」。
その日はビル・エバンスの誕生日だったのだ。
エバンスも苦笑いしたに違いない。
これでは先ほどの身勝手にも怒るわけにもいかない。
そうして音楽は「あなたと、夜と、音楽と」のまったりとした世界に続い
ていく。
このアルバムはそんな天才同士のやりとりを間近に見ているようで本
当に面白い。
音楽の上での激突は、あくまでもノーブルだ。
天才たちは競ってつばぜりあいしていても、音楽の上では「But
Beautiful」。
春の寝ぼけた頭をやさしく揺すって、何か美しいものを見にいきたく
なるような、そんな誘いかけをしてくれるようだ。

晴屋の青い扉 その52 ここに生きる

晴屋の青い扉 晴屋通信より
ここに生きる

中古の車を乗りつぶしていく晴屋。
エコカーを新車で買うよりも環境への負荷が少ないということをいいことに、自動車を荒く扱って仕事を続け、廃車になるまで使い続けている。
最近買ったバンにはカーナビがついているが、地図ソフトが古くて使いものにならず、間もなくまったく作動しなくなってしまった。
別になくてもかまわないのだけれど、新しいお客さんの家を探すのに便利な時もある。
テレビの通販で約3万円で出ていたので思い切って注文してしまった。
ねずみ取りのレーダーの位置やガソリンスタンドの場所まで教えてくれて何かと利用している。
電話番号だけで全国への道順を表示してくれる。
ふと思い立ち、最近一番気になっているパプア・ニューギニア海産の電話番号を入力してみた。
この会社とはもう10年以上の付き合いになる。
パプアニューギニアのきれいな海で獲れたエビを船上ですぐに冷凍した、鮮度と風味が抜群なものだけを扱っている。
これを食べると他のどのエビも満足できない。
エビ好きの私たちにとってはかけがいのない品物だ。
開発途上国の自立をこちら側の価値の押し付けでなく、地域に根ざした新しい産業と文化の育成でもくろんでいるこのプロジェクトは経済を超えた発展と交流の可能性をはらんでいる。
以前は豊島園の駅前に事務所と店舗があり、直接引き取りにいっていたので社長や専務なども顔見知りだ。
彼らが原発への不安などもあって、仕事場を石巻に移したのは5年程前だったろうか。
今回の震災と津波の影響で石巻の壊滅的な状況を見るにつけ、気になってしかたなかったのだけれど、もしかして山の方に事務所や作業場があるという可能性もあると一縷の望みを持って、カーナビを検索してみた。
期待は残念ながら外れ、場所は港の岸壁の間近だった。
これでは会社の建物の崩壊はまぬがれないだろう。
後は、従事している人たちの生存を祈ることしかできない。
人間が無事でも、もともと商売が上手ではなかったこの会社の復興の道は厳しいものがあるだろう。
あのエビをもう食べられないかと思うと余計に寂しさと切なさが胸に迫った。
私自身が直接被災したわけではないが、惨状や岩手の他の生産者の状況、ガソリンの手配で朝5時からの列に並んでの待機、米や納豆を求めて知らないお客さんが来た時の応答やお断りなどで、日に日に疲れが蓄積していった。
そして福島第一原発の問題が連日報道される。
危機的な状況が回避できず不安は高まっていく。
私の周囲でも西へ逃げる人が何人かいた。
原発の危険性を訴えていた側の私だが、「晴屋さんの言っていた通りになったわね」などといわれても、うれしくはない。
胸がぎゅっと縮こまった感じのまま、ため息とともに「残念ながらそうですね」というのが精一杯だ。
しかし不思議と逃げようという気はおきてこない。
身体がそういう反応をしない。
何故かやけに冷静に周囲を見回している。
疲れてはいるが、人間性があらわになる緊迫した状況だからこそ、なるべく心しずかに、平常を保とうとしている。
こうした時には意外な、いや実は必然的な出会いもある。
最近、丸山真男という巨大な知性を持った人の本を読んでいる。
それに関連して音楽好きだった丸山の音楽への情熱を語った本「丸山真男 音楽の対話」(中野雄著文春文庫)も読んでみた。
以前私もセルの連載の中でもふれた、フルトベングラーという指揮者の音楽を丸山は愛していたという。
しかしドイツの文化を継承しようという意思のため、政治は一過性のもので芸術は永遠だという信念にもとづいてドイツで演奏を続け、結果としてナチスに利用されたフルトベングラーの、政治的態度には厳しかった。
一方ケンプという著名なピアニストは亡命せずにベルリン郊外にとどまり、私財を売りながら隠遁生活を続けわずかなレッスン料も入らないほどの状態でも窮状を耐えた。
フルニエというフランスのチェリストもあえてナチス支配の国内にとどまり同胞と同じ辛苦を共にした。
丸山は言う。
「あのときも書いたけれど、フルトヴェングラーも含めて、ナチス支配下の母国に積極的に居残った音楽家の姿勢には共通した何かが感じられますね。
とくにケンプとフルニエの音楽にはそれがある。
毅然たる姿勢、凛とした音楽・・・・。
そのつもりで聴いてしまうから、そう聴こえるのかもしれないけれど、背筋をピンと伸ばして、孤高を守り抜いたという芸術です。
精神の貴族性ですね。
何ものにも屈しない、現実から逃避しないという、いちばんいい時代のヨーロッパの精神的遺産です。
君のもってきた二人のライブ、べートーヴェン生誕二百年記念のパリ・コンサートですか。
比類なき名演だな。
音楽的な感性は正反対のように思えるけれど、共演が生んだ世界には毛ほどの違和感もない。
ベートーヴェンの音楽に対する共感と尊敬の念と・・・・・そういう気持ちがこういう演奏を生むんですね。
おそらく戦時中の共有体験が無言のうちに二人を結び付けているんだと思う」
このような厳しさに、私が耐えているとも、耐えられるとも思わないが、少なくとも自分が何を求めているかは、この言葉によって理解できた。
いざとなったら、実際死の危険が迫ったら私も一目散に逃げ出すかもしれないけれど、少なくともできる間はこの場所に留まって、同じことを続けるのが私の責任だと感じた。
私にはヨーロッパの音楽家たちのようには受け継いだ伝統や文化はない。
しかし晴屋をはじめて、この食べ物がいいんだよ、こっちの生きかたのほうが自然なんだよと言い続け、それを引き受けてくれる人たちがいる。
そのことの重さを感じる。
それは必ずしも安全性だけを求めたものではない。
今晴屋の店頭に並んでいる法蓮草には張り紙がしてある。

この法蓮草は茨城産です。
千葉県との県境近くで影響は少ないと思われますがゼロではないでしょう。
不安を感じられる方は、購入をお控え下さい。
なお、茨城産で放射性物質が多く検出されたものはあえて露地ものを測定したということです。
同時に検出されたかき菜は通常路地栽培する物です。
晴屋及びほとんどの生産者はトンネル栽培といわれる、ビニールで覆い防寒対策をした栽培方法をしています。
この方法で葉に放射性物質が付着することはほとんどなく、影響はきわめて少ないと予想されます。
また放射性物質は重金属類で、油や有機物ではないため、比較的簡単に葉からの洗浄、除去ができるようで、アルカリウォッシュ・重曹は洗浄に特に有効です。
ただし根から吸収する場合もありますので、根の付近は食べない方がいいだろうと思います。

今の法蓮草を作っているのは斉藤さんだ。
もう30年もこの法蓮草を売っている。
本当に危険ならもちろん扱えないが、すべてが白とは言えない状況のなかで多少の灰色は、たとえそれによって売り上げが落ちたとしても、引き受けたいと思う。
もちろんお客さんへの責任もあるが生産者への責任も私たちにはある。
ここに生きるという感覚と覚悟は、必ずしも空間の問題でなく、生きて支えあっているという確信によっている。
また一方、人間の種としての寿命や生命力に期待したいという思いもある。
公表はされなかったが、チェルノブイリの原発事故の後、多量の放射能が日本にもやってきた。
私の4人の子供のうち、3番目の女の子がその時期乳幼児だった。
成長過程でのアトピーのようなものは誰にでもあるが、私の家では圧倒的にその子の症状がひどかった。
皮膚は整体的には最後の砦といわれ、他の器官で出せないものの排出する働きがある。
出す力があって、出しさえすれば、後に問題を残すことはない。
危険な場合は避ける勘も含めて、そうした人間の持つ力が試されているともいえる。
しかし、そんな悠長なことを言っていられるのも、福島第一原発のトラブルがこれ以上の被害を出さずに収束していけばこそだ。
事態は決して予断を許さない。
今、収まればアメリカでのスリーマイル島の事故程度だが、これ以上進めば、チェルノブイリかそれ以上ということも考えられる。
ここに生きるなどという、私個人の小さな思いなど跡形もなく吹き飛んでしまう。
先日、関西に避難していた枉駕の本多夫妻が帰ってきて営業を再開した。
お酒を飲みながら話をする機会をもったが、枉駕では関西の野菜の仕入れを検討しているという。
晴屋と違う野菜との向き合い方だが、エビは同じところから仕入れている。
その時、本多さんがネットで得た情報として、パプア・ニューギニア海産
の人たちが全員無事で生きているということを教えてくれた。
地震の直後、従業員も含めて直ちに海から離れたという。
いいことが何もない今の状況の中、ほっと救われたような思いがした。
今後の再開のことはまったく分からないが、援助やカンパを申し入れてくれるお客さんもおり、様子を見てできる事をしたいと思っている。
福島第一原発での事故の収束を、ここで生き続けられることを、祈るしかない日々が続く

旬の音楽と野菜とからだ3 月 その1 この世の苦さと天上の音楽

3月はモーツァルト
この世の苦さと天上の音楽

春は、芽吹きの時。
冬の間、堅く縮こまって寒さに耐えていたものが、ほころんで、動き出す。
新緑の季節は植物たちが最も美くしく輝いて見える。
まだ小さいのにいのちが凝縮していて、赤ちゃんの笑顔に誘われるようにこちらも微笑み、心があたたかくなる。
そんな変化は、大きく育って、少なからず鈍くなっている私たちの身体にも起きている。
骨盤や肩甲骨、後頭骨が動きだし、開き始めて、夏の身体に変わる準備をはじめる。
腸も活発に動き、食べる量も増える。
それと共に、身体がなんとなくだるくなり、頭がぼやっとしてなんともしかたく、しまりがない。
車を運転していても、不注意な飛び出しが多いのが今の季節だ。
自分が自分では無いような感覚があったり、何をしてもまとまりがつかない。
私を含めて、春のこの感じか嫌いな人も多い。
春は、冬の間に溜まった老廃物を出し、殻を破って新しい事に取り組む季節でもある。
よく分からないままに、新しいことをはじめる。
そんな矛盾した、あてども無い感じが、春の感覚だと思う。
食べ物も冬の間の蓮根や根の物などの身体を温める物や、霜に当たって甘く柔らかくなった葉の物たちが必要なくなって味が落ちてくる。
替わりに、柑橘類やいちごなどのフレッシュな風味の果物が清新な力を与えてくれる。
竹の子、ふきのとう、ウドなどの山菜の芽吹きの苦さは、肝臓や内臓を刺激して、食べ過ぎなければ、老廃物を排泄する手助けをしてくれる。
季節と、身体と、食べ物と、感性は、本当にピタッと結びついている。
それは、耳から楽しむ音楽にもいえる。
春の寒い日は、生への憧れと絶望が同居したシューベルトが心地よいけれど、暖かくなってくると、とたんにうっとおしい。
春に一番ぴったりなのは、何と言ってもモーツァルト。
モーツァルトは心の動きを音に写しとる天才だ。
彼の子どものような純真な心がそのまま音になっている。
それがあまりに見事で完璧なので、音の動きの中にいて一体になり、心の存在すら忘れてしまう。
隅々まで行き届いているのに作意のかけらも感じない。
だから、心のどこに重点を置いて演奏するかで、同じ曲でも全く別物になってしまう。
モーツァルトに万人向きの決定的演奏が出にくい。
色々な解釈の仕方があり、感情の激しい起伏を表現したものから、透徹して天上の愉悦感になってしまったものまで、みんなそれぞれに素晴らしい。
人により、時により、いいと思うものが違う。
私の常用のものをあげてみると、ピアノ協奏曲では、カザドッシュの柔らかく透き通ったタッチのピアノとセルの活気に満ちたサポートによって、大人の楽しみとしてのモーツァルトを極めたものを
聴くことが多い。
特に26番は、素晴しい。
グルダが残した「モーツァルト・テープス」という録音では、ひたむきに静かに向き合う姿勢が、グルダとモーツァルトの深い心情を明らかにしている。
みんなの前では明るく振舞っていても、両者共に孤独と向き合っていたのだと心が鎮まる。
感情の暗い淵を覗いているようなブタペスト弦楽四重奏団の弦楽五重奏ト短調。
ステンドグラスの光の様に透明にうつろう美しさを表現したハーゲン・カルテットの弦楽四重奏ニ短調。
昔の録音になってしまうが、バリリやカペー弦楽四重奏団の残したものは、古びない生まれたての美が宿っている。
デニス・ブレインのホルン協奏曲は、天馬空をいくという表現がぴったりの伸びやかでおおらかな楽しさに充ちている。
カラヤンのサポートも素晴しい。
比較的新しい録音の中で気に入っているのは、デュメイがバイオリン独奏と指揮をした協奏交響曲だ。
共演はハーゲン・カルテットのビオラ奏者、上手で、感性豊かで、美人のベロニカ・ハーゲン。
デュメイという人は若いときからテクニック豊かで、音も美しく、有名だったけれど、どうも神経を逆なでするようなところがあって、好きではなかった。
しかし男は女によって、内なる力を導き出されることもある。
いつもの知性の爪を見せずに、類まれな名演をやってのけた。
天も、地も、人も無く、自由に流動し、飛翔する。
どこにも力みも、緩みも無い。
全ての瞬間が美しく輝いている。
いい演奏は数あるけれど、モーツァルトの音だと感じさせるものは少ない。
モーツァルトの音に浸る幸せ。
知らず知らずに微笑んで、絹の糸を紡いだような繊細で、輝かしい流れに身をまかせる。
一年中聞いて飽きないモーツァルトだけれど、やはり春が一番いい。
この季節は、晴屋では70年代の爽やかで、伸びやかなロックもかかる。
ボストンのDon’tLookBack、ダイアストレーツのBbrothers In Arms、ザバンドのIsland、ジェームステイラーのJTなどが、固まった心と身体を心地よく、ちょっとだけ刺激的にゆり動かしてくれる。
モーツァルトが果物なら、ロックは山菜かもしれない。
天候や季節に合った旬の音楽は心と身体の栄養だ。
というよりは、自分に合ったものを楽しく受け入れているのが、自然で健康な状態なのだ。
特別な物は何もいらない。
モーツァルトと美味しい野菜さえあれば。