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旬の音楽と野菜とからだ 11月 その9 移行と変動の季節

旬の音楽と野菜とからだ
その9 移行と変動の季節

まだ暖かい日も、肌寒い日もある冬の入り口の11月。
身体は冬の準備が完全にはできていない。
雨が少なく、乾燥した空気の中、温かい食べ物や汁気がうれしい。
夏ほどには雑菌は多くないけれど、気管が乾くと咳が出たり、イン
フルエンザに犯されやすくなる。
温かい水分の補給の他に、柑橘やりんごなどの果物で補給できる
ビタミンやミネラルはとても貴重だ。
若い頃は味見程度しか果物を食べなかった私だけれど、最近
はやけにみかんが食べたくなる。
歳と共に身体が草臥れて弱ってきて、今まではそれ程は必要な
かったものが欲しくなるのは変化は興味深い。
例年悩まされる、長引く咳がずいぶん楽になった。
気候的には、程ほどの温度で、湿気も少なく過ごしやすいはず
なのだが、体調を崩す人が多い。
夏の疲れが出ると共に、冬への準備で骨盤の動きがあり、皮膚も
急にしまってくる。
食欲が急に落ちたり、食べてもつっかえたような感じがあったり、肉
を見るのも嫌な感覚があったり、便秘気味、あるいは急な下痢も
あったりする。
この季節のこれらの多くの原因は季節に対処しての身体の変動だ。
積極的に発熱して、風邪として経過するのが身体には一番いい。
こうした風邪はひけばひくほど、身体が丈夫に健全になってくる。
発熱するにも体力がいるので、私などのように忙しくて余力が無い
と熱をだすことも出来ない。
それでも、内臓の変化を季節の変動と思って、食べたい時には
食べ、食べたくない時には食べなければ、せいぜい四、五日で
元にもどっている。
この季節は骨盤の変動で、腰や骨盤、股関節などにも痛みが出
る。
これも、健康なら、発熱か何日かの経過で変化し、身体は冬の準
備をすすめていく。
中途半端な季節のうつろいで、疲れが出やすいこの季節は、自
分にとって第一の自然であり小宇宙である自分の身体を観察し、向
いあう機会でもある。
しかし、世の中には邪魔なものがいっぱいある。
その中でも、TVやマスコミ、本からの断片的で生半可な情報は、
迷惑な物だ。
現代ではどういうわけか、自分の感覚よりTVや画面の方を正しい
と思う人が多い。
評論家やプロというのも困った存在だ。
人間というのは、様々な要素が複合的に組み合わさって出来上が
った総合的な創造物だ。
その人の持って生まれた物に、育ち方が組み合わさって、世界で
唯一の者になっている。
一般的なことや平均値をとりあげてみても、私たちとのずれは多い。
例えばタバコは常識では悪い物に違いない。
癌や様々な成人病の原因だ。
けれど、人によってはこの刺激を使ってかえって元気に生きている
人もいる。
玄米だって、人によっては害になり、体調を崩す。
薬も、身体に良いと言われている様々なものたちも、慢性的に身体
に入れることで不健全な状態になったり、自分で治そうとする力
を抑えてしまっていることもある。
何を信じるか、しっかり見極めないと、傷つくのは私たち自身だ。
けれど、手間を惜しまず自分のことをなるべく他人まかせにせずに
生きていく方法もあると思う。
TVも悪いとは言わないが、得た知識はあくまで情報だ。
自分の身体で確認して自分のものにするまでは、真実とは厳密に
区別しなければならない。
その作業を怠っていると、自分が何をしたいのか、何者であるか見
失い、広大な情報の海で迷子になってしまう。
一人一人が自分の立場を確認し、不必要な物に手を出さなければ、
世の中全体は大きく違う物になるだろう。
疲れの話から、随分遠くにきてしまった。
こうした、頭が緊張して、内向きで、少し攻撃的な感性は、全く秋のも
のだ。
あいかわらずJAZZもあうけれど、今月はブルックナーを紹介しよう。
この人は、敬虔なクリスチャンだったが、家の中では素っ裸でいる
野生児でもあった。
オルガンを思わせるような壮大な交響曲を9曲作った。
秋には何故か聞きたくなる。
若いときには重量級の7、8、9番を聞いていたけれど、最近は重さ
に耐えられない。
それで、「自然交響曲」と呼ばれる4番を聞くことが多い。
森のざわめきや狩のホルン、夕映えの色やいろいろなものが聞こえ、
流れに身をまかす。
ヴァントという指揮者がベルリン・フィルを振ったものが、静けさと透
撤した美しさを現しておすすめだ。
もう一つ、秋の夜長にぴったりなのが、ギーゼキングがピアノを弾
いた、メンデルスゾーンの無言歌だ。
しっとりと、滋味深く、音楽が手作りされている。
寝つきが悪い私にとって、最高の睡眠薬=最良の音楽でもある。

晴屋の青い扉 その46 酒ねた

晴屋の青い扉 その46
酒ねた

酒の楽しみはいろいろある。
束縛されずに、自由に楽しむのが酒の楽しみなのだから、言うことは
何もない。
他人が何を言おうと、ハイその通りと思う。
しかし自分の楽しみ方を変える気はない。
最近は、寺田本家の「五人娘」と大書した前掛けをしながら仕事してい
る私だが、お節介な一言が一応は支持され、お客さんたちに納得さ
れているという前提で、酒ネタで徹底してみたい。
酒はやはり日本酒だと思う。
けれど、最高の酒は日本酒だが、最低の酒も日本酒と思う。
甘くて、ベタッとして、後に残ってという日本酒のイメージは粗製乱造
した、酔っ払えればなんでもいいという酒の、当然の成り行きだ。
私も若い頃は、日本酒は最低の酒と思っていた。
しかし、アルコールを添加して、原量を水増しし、旨みを足すために
糖分を加えるといった経済性重視の酒造りと違うやり方のものと次第
に出会い、寺田本家と直接取引しはじめ、蔵に行ったり、知らない酒
や新しい酒を味わううちに、こちらの日本酒に対する姿勢も変わってきた。
原料の米を自分たちで作ったり、契約の農家だけに絞って質を高め、
自然の力を信頼して、余分なことはせず、しかし機械にたよらず昔なが
らに、歌を歌いながら人の力だけで仕込んでいくというやり方を目の当
たりにして、ただ酔うだけでなく、味わって身体に導きいれ、一体に
なる楽しみを感じるようになってきた。
そうすると「五人娘」(精白度70%)よりは同じ蔵の「香取」(精白度80
~90%)の方が身体にぴったりくるようになった。
米の風味をストレートに感じられ、糠の香りも強いが切れのある酸と
豊富な旨み成分に支えられ、嫌味がない。
玄米に近い原料米のため、栄養のバランスがいいせいか、不思議な
ほどに後に残らない。
五人娘はこの蔵の看板の酒だが、もう今期は出荷終了となってしまっ
た。
売れてきても質を維持するために仕込み量を増やさないのがこの蔵
のやり方だ。
九月下旬までないという。
香取も同様に出荷が終了しているが、晴屋では幸運にも在庫を確保
できて、しばらくは販売が続けられる。
けれど、晴屋で一番売れている酒はいつの間にか同じ蔵の「醍醐の
しずく」になっている。
これは一言で言うと「甘くて、酸っぱい」酒だ。
糠床っぽいという人もいる。
米の香りがたっぷりでしかも甘いけれど、甘い酒が大嫌いな私も含め
て、甘さへのクレームはまったくない。
甘さの質が違うのだ。
みりんに近いような、和三盆に近いような、すっきりとした柔らかくやさし
い甘さで、身体にスッと沁みていく。
冬は甘さが多くなり、夏は酸味が増えていく。
自然な経過が、私たちの要求とぴったり合っているのが、自然で不思
議で興味深い。
アルコールは9度位と低めなのだが、それを補って余りあるアミノ酸の多さ。
とにかく旨みが豊富なのだ。
飲んでいて疲れが抜けていくのが実感できる。
それは酒で身体の要求を鈍らせ、疲れを感じなくなるひと時の錯覚と
は明らかに違う。
寝酒に利用している人も、昼間から栄養剤代わりにしている人もいる。
たくさん飲むものでなく、少量で満足してしまう。
一度飲んだら忘れられない魅力ある酒だ。
冷蔵庫に入れておけば、次第に甘さが減り酸味が増えてくるが、発酵
は進んでも品質は変わらないのも管理が楽で扱いやすい。
価格も720mlで1522円とワインよりは割安になっている。
この酒が旨いのには理由があって、米のよさもさることながら、仕込みの
やり方にも秘密がある。
中世の寺院での炊いたご飯を仕込み水に漬け込んで乳酸発酵をさせ
る酒造りを再興している。
古の知恵と自然の恵みに感謝し、それを勇気を持って製品化した寺
田本家を支持したいと思う。
そして、最近その存在を知り、まだこの通信ではお知らせしていない
のに、店頭に置いておくといつの間にか売れていってしまうのが、「な
んじゃもんじゃ」だ。
この名は寺田本家のすぐ近くにある神崎神社にある木に由来してい
る。
水戸の黄門様がこの神社に寄り、古い楠木を見て「これは何というも
んじゃろうか」と言ったという。
寺田本家ではこの大楠に守られた鎮守の森に湧く水を酒の仕込み水
にしている。
そんな木の名前を冠したこの酒は寺田本家の思い入れの深い自信
作なのだろう。
近くの農家で生産した「亀の尾」という昔ながらの米を使い80%まで
磨いて使っている。
「醍醐のしずく」とは対照的なきりっとした辛口のお酒で、アルコール度
数も加水による度数の調節をしていないために19度前後とかなり高め
だ。
「醍醐のしずく」のちょうど倍くらいということになる。
これはもうど真ん中、直球勝負といいう感じだ。
それもかなりの剛速球。
酸度もアミノ酸値も高いのだが、切れ味があるのでもたれない。
そして明らかによく酔う。
どろっとした重い酔い方ではなく、ビールの軽い浮揚感ある酔い方と
も違う。
腰や頭でなく、胸に響く酔い方だ。
度数が高いので、好みの水で割ったり、お湯で割ったりしても違った
風味が楽しめる。
酒の楽しみを極めたい人のための酒といえる。
価格は720mlで、1575円。
醍醐のしずくとほとんど変わらない。
楽しみがまた増え、辛い仕事もまた増えてしまう。
最近いくつかの雑誌の取材を受けたが、そのうちの一つ「多摩ら・び
東久留米」が発売になって送られてきて、近くの店でも見かけるようにな
った。
お客さんが編集の手伝いをしているということもあって晴屋は優遇され
一番先に大きなスペースで紹介されている。
私の写真も載っていて、撮るのは好きだけれど撮られるのが大嫌い
な私としては、珍しく評判がいい。
気さくなカメラマンで楽しい雰囲気の取材だったけれど、いきなりカメラ
を向けられて写され「こんな最初からいいお顔をしていただくことはあ
りません」と言われた。
そうか不思議だなと思い手を見てみたら、醍醐のしずくを持っていた。
なんだ酒ビンを持っていれば私はいい顔してるのかと妙に納得して
しまった。
酒に助けられて、生きているのだなあ。

晴屋の青い扉 その36 痛みの理由

正月早々、背中に痛みが出て、身体を起こすのにも何かにつかまらないと
出来ないようになってしまった。
ぎっくり腰ほどではないが、思うように動くことが出来ない。
背中の中程、左側の痛みの原因は腎臓だ。
腎臓は、疲労のバロメーター。
年末の忙しさの中で、ついつい水分補給を怠り、ただでさえ疲労が蓄積
する腎臓に負担をかけてしまった。
こうなったら、じっくり付き合うしかない。
朝風呂や近所の温泉でしっかり汗をかき、縄文水をたっぷり飲んで、身体
を休める。
腎臓を休ませるには、汗をかいて腎臓が働かなくてもいい状況を作っておい
て、横になって休むのが一番だ。
二三日すると、針金のようだった椎側が木の硬さ位になって少し弾力が出
てきて、痛みが上に上がってきた。
肩甲骨の付近が痛くて仕方ない。
息をしても痛みが走る。
腎臓の次は、腕の疲れが出てきた。
あれだけ膨大な量の野菜を運んだのだから、これも仕方ない。
腕の急所を押さえながら、じっと回復を待つ。
以前に、人間は大きく分けて2種類あると書いたことがあった。
この世に生まれたことを享受しようとする人たちと、何かを押し通すためにこ
の世に生まれてきた人たちだ。
もちろんみんな両方とも持っているのだけれど、その境目にいろいろな見
方や立場がある。
おしゃべり好き、食べるのが好き、流行やTVが好き等は、間違いなく享受
派の特徴だ。
反対に頑固な一途派は、それらを嫌ったり興味が無かったりする。
そして私が感じる二派の大きな違いに、痛みに対する感受性の差がある。
享受派は、おおむね痛みを嫌う。
もちろん痛みなど無いほうがいいに決まっているし、好きだなどと言ったら
何か別の方向へ言っているに違いない。
けれど、痛い思いをした時に、二度と繰り返さないように極端に避けて警戒
するか、懲りずに繰り返すかというのには、根本的に大きな差があると思う。
一途派が、バカで懲りないという見方も、もちろん成り立つ。
しかし、痛みを避けて、自分の持っている可能性を狭めることだって、相当
馬鹿げたことに違いない。
それにしても痛みとは何だろう?
私がお世話になっている整体の指導者は、自分の歯の治療や腕の複雑
骨折の時にも麻酔を使わない。
人一倍敏感な感覚を持っている人だから、もちろん何かを感じているに違
いない。
鍛えられているから耐えられるのか、痛みを普通と違う感覚で捉えている
のか、とにかく麻酔無しでやり通してしまう。
痛みというのを回復への要求として捉えれば、そこに今までと違う物が見
えてくるということはある。
痛いから気が集まるのか、気が集まるから痛いのか分からないが、今まで
あった異常や強張った体の状況が、気が集まり痛みが出て、初めて回復
し始める。
打撲も、本当に重いときは痛みを感じない。
回復の動きが出てから、痛みが出てくる。
風邪の熱だって、体の強張りを熱を出し汗をかくことで解消しようとする
要求だ。
痛みを避け、ごまかす事は、せっかくの身体の働きを妨げ、身体の感覚を
鈍らせ、老いへと向わせる。
もちろん常人である私たちが、麻酔無しで歯の治療を受けるのは難しい
だろう。
けれど、風邪薬や痛み止めを飲まずに、静かに痛みを受け止める程度の
ことは出来るかもしれない。
人生は小さいことの積み重ねで出来た長い道のりだ。
少しの積み重ねが、次第に大きな差になって私たちに現れる。
同じ痛みでも、嫌だと思うのと、これで異常が解消するかもしれないと思うの
では、全く違った受け止め方が出来る。
痛いのが嫌な享受派だって、最後に大病してつらい思いをして死ぬのは
いやだろう。
辛いところまでやらないと気がすまない一途派だって、身体が痛みに耐え
られなくなって道半ばで動けなくなるのは、不本意なはずだ。
痛みには理由がある。
その場のごまかしでは、その理由から逃れることは出来ない。
寒さに耐え、陽に向かい育つ野菜には、かえられない美味しさがある。
人間だって、耐えながらもやりたい事やるべきことを続けていれば、それな
りの味が出てくるだろう。
辛いのが好きなわけではないが、それを信じていられるから、こんな八百
屋も続けていられる。

晴屋の青い扉 その50 温泉での覇権

晴屋の青い扉 その50
温泉での覇権

休日がない私の一週間だけれど、月曜日と木曜日の引き売りの日は
特に忙しい。
朝5時から仕事をはじめ深夜まで、20時間近くほぼ休みなく働き続け
ている。
当然翌日はぼろ布のように疲れ果て、朝2~3時間、店の開店までの
セッテングをした後は全く使い物にならない。
夕方店に帰って店番をしながら、発注をしたりこの通信を作ったりする
までの、火曜と金曜の数時間が私の骨休めと息抜きの時間になる。
東久留米の周辺には数件の温泉施設がある。
店にいても、自宅でも、気になって何か始めてしまう貧乏性の私の強
制的な休憩の場として利用している。
前日のフォローの配達などもあるので、その時によって場所は変わるけ
れど、熱い湯が好きな私が全身が緩む感じの得られる場所は一軒だ
けだ。
しかし、そこには欠点がある。
早い時間には常連が多くいて、おしゃべりが煩く、心静かにしていら
れない。
世情やら自分の経験を話して、互いに納得しあっている。
好意でだけれど話をこちらに向けてくることもあるが、正直言って迷惑
だ。
私は人間関係のわずらわしさから逃れたくてこうした場所に行って、
孤独を楽しみたいのだが、そうではない人が多いのだ。
私にはとても不思議に感じる。
そのうちに面白いことに気がついた。
源泉かけ流しの温度が高めの風呂と、そのすぐ下に温度が少し低めの
東屋がついた風呂があって、それぞれに派閥があるらしい。
露天風呂のため雨の日は頭や顔が濡れることもあるけれど、ある日
源泉かけ流しの親分が東屋つきの方へ移動しようとしたら一番声の大
きいおじいさんに「来なくて、いい」と一喝されすごすごと立ち去った。
そんな覇権争いが楽しいのかと思いながら眺めていたら、最近頭の
中に湧いているあるイメージを思い出した。
人間には、大きく分けて2つのタイプがあるのではないか?
こんなことを考えたのは排便のときの気持ちよさからだった。
世の中にはなかなか出ないで苦労している人も多いが、私は健康状
態がよければすっと出るし、なんともすっきりした快感がある。
食べる快感より大きいかもしれない。
その快感は何かを作る快感に似ている。
文章がうまく書けたり、料理が思うようにできたり、仕事がイメージ通り
に運んだりといった爽快感にとても近い。
それで私は、吸収することよりも排泄の方に気持ちがよっていると感じ
てからだった。
蓄え豊穣になろうとするタイプと、排泄し純粋になろうとするタイプが
あるなと、周囲を見回し始めた。
一つ目はこの世に生まれた喜びを享受しようとするタイプで、食べたり、
知ったり、掃除したり、おしゃべりするのが大好きだ。
この世のことを吸収するのが快感で流行にも敏感に反応する。
人や現実と係ろうとする明朗で積極的な感性を持っている。
吸収し同化する力が強く、生きる幸を謳歌できるだろう。
その中にも、食べることに対する感受性が強かったり、身体を動かして
冒険をするのが好きだったり、闘争に命を燃やしたり、子育てに命がけ
だったり、お金や名誉を求めたり、恋に生きたり、様々なバリエーション
があるが、現世に生まれたことにきっちりと沿っていくことに共通点があ
る。
もう一つのタイプは、最初から何かしたくてこの世に生まれきた人たち
だ。
あの世から何かを持ち込んでいるのかもしれない。
前のタイプが多様性を志向するなら、こちらは純粋さを目指している。
吸収、同化より、排泄、異化の方に興味を持つ。
妙にストイックだったり、修行が好きだったりする。
余分なものなしに、自分がどれだけ自分らしく生きられるかを追求する。
この世に生まれた以上は、この世を味わい尽くすのが生命の本筋だ
ろうから、こちらは少数だし、どこか不健全でもあり、明らかに周囲から
浮いている。
世の中がどうなろうと、自分の道を歩こうとするから、流行からは遠い
ところにいる。
その中にも、頑迷に思い込みを通そうとする人から、現実に溶け込ん
でひっそりと目立たずに生きようとする人までいろいろな人たちがい
る。
もちろんこの二つの傾向は誰の中にもあるものだし、どちらだけという
ことはない。
吸収できなければ最初から生命ではないし、排泄できなければ老廃
物で中毒し、外からの雑菌などにも対処できない。
しかし個性として、どちらかに重点があるのは確かだ。
私は明らかに少数派の後者だが、人と絡んで生きるのが本筋の前者
なら、温泉での覇権争いもその人たちにとっては、生きがいであり充
実した一時なのかもしれない。
私には迷惑だが、それに対してどうのこうの言うものではないのだろう。
けれど、そこには男の老人の前立腺の問題も絡んでいる。
お世話になっている整体の指導者から「歳とったら前立腺(の異常)は
しょうがないんだよ。男は死ぬまで子供を作ろうという欲求があるから、
それで前立腺が暴れる。指導者だってそれが元で足首を骨折しちゃう
人もいるんだから、仕方ない」と言われた。
生殖器の一部である前立腺がどういう働きをしているかよくは知らない
し、西洋医学でもまだ不明のようだが、男の老人のトイレが近くなったり、
肥大したり、癌になったりという話はよく聞く。
私も老年にさしかかりつつあり、警告として教えてくれているのだろう。
確かにあっちこっちにまき散らすのが雄の本能だが、実際には体も動
かないし、後のことを考えると面倒くさくて行動を起こす気もおきない。
複雑な人間の社会の中では、半ば去勢され目を眩まして生きる方
が楽かもしれない。
けれど内なる荒々しさに向き合うとき、その火を消さずにいたいという
要求にかられる。
そうしたエネルギーをどう燃やし、使うかが人としてのたしなみなのだ
と思う。
病気になって自己主張したり、妙な思い込みから戦争を起こしたり、
他人のことにいちいちケチをつけたりするよりは、芸術や趣味に熱中
し、あるいは先ほどの温泉での覇権争いなど、そんなことですんでい
れば、上等なのかもしれない。
歳をとって、ますます偏屈になっていく私たち。
狭いところにいることが、余計なものを取り去って自分らしくなる手段にな
っていけばいいという私の志向にとっても、現実的には切り詰めていく
のも容易ではない。
豊穣と多様を求める人たちにとっても、これだけ情報や選択肢の多い
なかで折り合いをつけるのはたやすいことではないだろう。
生ききるということは難しいが、それだからこそ意義もある。
単なる老害か、老いの豊饒か、人としての昇華か、私たちは日々試
されていると思う。

チェルノブイリに学ぶ放射能対策

チェルノブイリに学ぶ放射能対策
チェルノブイリ事故から25年。
隣のベラルーシにもセシウムを中心とした大量の放射性物質が降り
注ぎました。
そのためベラルーシでは日本をはるかに上回る健康管理が必要と
されおこなわれています。
NHKが現地の研究所で行なった取材と、ベラルーシで財団を作り
放射能の害を減らそうと努力している人の報告をまとめて、私たち
の参考にしてみたいと思います。
まずベラルーシでは、放射能の測定が誰でもできる体制が整ってい
ます。
各学校や保健所には必ず測定器があり、食べ物や人体に蓄積した
放射能の量を知ることができます。
時間は10分ほど、料金も100円位で計ってくれます。
これはぜひ日本でも見習わなければなりません。
必要な情報を自分の納得いく形で手に入れられる状況なしには私た
ちは本当には安心できません。
食べ物を持っていくとそのまま鉛の容器に入れ、10分で結果が出て
安全なら証明書を発行してくれます。
刻んだり、ぎゅうぎゅうに詰め込んだりはしません。
ベータ線やガンマ線は浸透力が強いため、刻む意味がないといい
ます。
特に空気が混じって放射能値が変わるようだったら、測定をやめて
すぐに逃げ出さなければならないといいます。
そんな高放射線量状況は考えられないそうです。
時間も10分は必要だけれど、それ以上は意味がないそうです。
厳密な値より、わずかな違いはあっても、多くのものを手軽に計っても
らえることのほうが意味が大きいでしょう。
計って安全なものは、持って帰って食べることもできます。
長年の経験が生んだ合理主義で、私たちも見習わなければなりませ
ん。
そして問題なのは基準です。
ベラルーシでは内部被爆・外部被爆合わせて年間1ミリシーベルトを超え
ないというのが基準になっています。
もちろんそれ以下でも影響がでる人はいるますが、低放射線量によ
る環境不適応症候群は、添加物や化学物質やストレスなどのその他の
要素との複合的な問題と考えるほうが妥当でしょう。
それらは放射能よりはずっと解決が容易です。
日本は現在セシウムとストロンチウムのみで年間5ミリシーベルトを超え
ないという基準になっています。
それで日本では食品は500ベクレル以下、飲用水・牛乳は200ベクレル
以下というのが基準になっています。
これはあまりに酷い数字だと研究所のネステレンコ所長は指摘しま
す。
ベラルーシの基準
乳児用食品  37ベクレル
飲料水     10ベクレル
牛乳      100ベクレル
じゃが芋    80ベクレル
牛肉      500ベクレル
豚・鶏肉    200ベクレル
お茶     3700ベクレル
日本よりかなり厳しい基準になっていますが、長年の甲状腺などの身
体の測定や追跡調査でこの値なら大多数の人に問題ないだろうとい
うのがこの数値です。
じゃが芋が厳しいのは主食で大量に食べるためで、日本なら米にあ
たるでしょうか。
お茶の基準がゆるいのは、溶出が少なく薄めて飲むからだそうです。
この基準なら静岡や小田原のお茶は全部大丈夫になります。
生活状況に合わせて細かく分類され、年間1ミリシーベルトを超え
ないよう管理されています。
晴屋の簡易測定値100ベクレル以下(実質50ベクレルを超えたものはほと
んどない)と言う基準は妥当な数値だと再認識しました。
ベラルーシでは食品に含まれるセシウムを減らすための知識も一
般的になっています。
セシウムは水溶性のため肉や魚を塩と酢を入れた水に4時間漬けて
おくと、30~40%の放射性物質が取り除かれるということです。
またセシウムの吸収を防ぐためにカリウムを含んだ食品を摂取する
といいそうです。
チョコレートやココア、バナナ、皮つきのじゃが芋がいいそうです。
また、セシウムを吸着して体外にだしてくれる物としてペクチンが有
効だとこの研究所では言っています。
リンゴ等の果物、野菜ジュースが特に効果的ということです。
みかんの内袋にもペクチンが多く含まれています。
国家予算の20%がチェルノブイリ対策に当てられているというベラ
ルーシに学ぶことは多いと思います。
日本では東電や政府の隠蔽体質のため、不安は解消できません。
ベラルーシに習って早急に放射能の測定ができる体制を作るべきで
しょう。
某大手宅配では、関西の野菜のセットを作って売り上げを伸ばして
いるということです。
不安から欲しがる消費者がいることは理解できますが、流通の一端
にいる人間としては、野菜や生産者に対する冒涜としか映りません。
確実に汚染されている地域で日々暮らし、頑張っている人がいる中、
ただ売り上げが増えればそれでいいのかと憤りを感じます。
500ベクレル/kgなどという基準は論外ですが、ここまでは許容し、こ
こからはダメという基準を明確にして、共に育ち生きていく感覚なしに
は、この状況は乗り越えられないと思います。
また別のネット販売では放射能の測定をうたっていましたが、私の
知る範囲ではほとんど意味がありません。
晴屋では一品目に2時間近い時間をかけて測定しますが、それは鉛
の10センチ厚の箱が用意できないためです。
短時間では放射線の種類や核種がわかっても量の測定は不可能に
思えます。
こんなことたちがまかり通ったりするのも、ちゃんとした情報が開示さ
れず、手軽に放射能の測定ができないためです。
一日も早い国の体制作りが必要ですし、不安によって本質を見失わ
ない消費者の冷静で合理的な判断が望まれます。

旬の音楽と野菜とからだその8 10月 ジャズと咳の季節

汗ばむような日差しの強さの後のヒヤッとするような涼風。
変化が多い天候の中、確実に寒い方へ気候は向っている。
野菜も味が締まってきて、蓮根、さつま芋、里芋などが美味しくな
ってくる。
夏の強烈な暑さの中、伸び伸び育った夏の野菜も美味しいけれ
ど、やはり寒さの中、じっくり育った野菜の味は格別だ。
みっちりと密度が高く、お腹に収まって、身体を中から育み、暖め
てくれる。
私たちの皮膚も、冬に向かい、寒さに耐えるように締まってくる。
角質層を厚くし、余分な汗をかいて冷えないようになる。
けれど、一息に冬の身体に変身出来るわけではない。
途中経過がいろいろある中、迷走神経という重要な神経の緊張は、
大きな変化だ。
副交感神経という感覚や意識的動きを司る神経を含む迷走神経
は、首を後ろから前へ斜めに横断しながら、脳から各器官に繋
がっている。
そのため、首が冷えると必要以上に神経が反応し過敏になる。
人によって、頭がピリピリと緊張したり、咳が出たりする。
人間は魚から進化する過程で、筋肉が足りないので、顔から筋肉
を持ってきて、横隔膜にしたそうだ。
その神経は首を通って呼吸器とつながっているため、首の冷えの
影響は大きい。
咳は、迷走神経の緊張を休める働きもあるので、悪い物ではない
けれど、長く続くと体力が落ちてくる。
秋の長雨が終わると長い乾燥の時期が続く。
気管支の中には繊毛がたくさんあって、呼吸で入ってきた空気か
らごみを越して、自然に外へ出してくれる。
しかし、乾燥状態では繊毛がうまく働かない。
それで、時々咳き込んで、咳といっしょにごみを出している。
これも必要な働きだ。
しかし、長く続くと炎症を起こし、余計に体力を消耗する。
私も毎年咳が長い。
一ヶ月以上、去年は一月まで続いた。
人にどうのこうの言える立場ではないけれど、神経を休めることと、
水分をきちんととって身体を乾かさないことが大切だ。
ちゃんと休みをとったり(これが一番難しい)、首に何か巻いて冷え
を予防する。
暖かい水分で身体を温めながら渇きを癒し、場合によってはマスク
を利用して、気管支に水分を保つようにする。
お風呂は気管支だけでなく、身体全体の水分補強になるので、積
極的に利用する。
入浴前に、胸を乾布摩擦すると刺激になって呼吸器が緩みやす
くなる。
首まで入ってたっぷり身体を休め、入浴後はきっちり汗を拭いて、身
体を冷やさないようにする。
すぐに睡眠に入ると、体温調節のバランスが崩れて、かえって冷え
るので、1時間程度は蒲団に入らない。
こんなことたちが、自然に則して薬に頼らず自分で出来る対処方
だろう。
伸び伸びした夏から、冬のキリッと締まった身体に切り替わる途中、
感受性も無理に押し込めたような窮屈な感じになる。
神経や頭の緊張も相まって、秋特有の鬱屈して、イライラした感
覚だ。
その解消に本を読んだり、物思いにふけったり、音楽や絵の美しさ
を求めたりする。
私は、他の季節に比べてジャズを聴く機会が圧倒的に増える。
ジャズの持つ焦燥感のようなものに、ぴりぴりした神経が同調する。
ジャズは多分、人類最強の音楽だと思う。
強烈なビート感、追求され解体されたメロディーとハーモニー、クラ
シックのテクニック、ポピュラーの情動や叫び、民俗音楽の深さな
ど、あらゆる物を内包して、まだ余りある。
ジャズのミュージシャンは本当に格好いい。
感性鋭く、野性的でありながら、頭のいい人も多い。
けれどそれはあくまで演奏する側の問題だ。
そして、高度な音楽である分、ある意味クラシック以上に聴くのにも
訓練が必要だ。
誰にでもは分からない、あるいは分からない奴は分からないで構
わないという孤高な雰囲気が、ジャズの魅力でもある。
それが、多くの人のプライドをくすぐり、俺が一番知っているんだと
いうマニアが多数、出現する。
これはあまり、格好よくない。
その輪には加わりたくはないけれど、ジャズを気軽に楽しみたいと
いう人のために何枚かおすすめしてみようと思う。
王道のピアノトリオでは、まずビル・エバンス。
ベースのスコット・ラファロとリバーサイドというレーベルに録音した
ものはどれも名盤で外れが無い。
チャーミングな「ワルツ・フォー・デビー」が一番有名かもしれないが、
何れも心を洗われるような清々しい叙情が何度聞いても飽きない。
心優しいということでは、デューク・ジョーダン。
「フライト・トゥ・デンマーク」というアルバムの心地よさは格別だ。
レイ・ブライアントも日本人好みの静かで秘めやかな感覚の喜びが
ある。
「レイ・ブライアント・トリオ」というCDは、最初の「金の耳飾」という
曲での細やかな煌きにエレガンスな色気があり、「エンジェル・アイ
ズ」や「ジャンゴ」といった名曲もステキな解釈だ。
サックスは若い頃は苦手だったスタン・ゲッツを楽しんでいる。
「ルースト・セッション」や「プレイズ」での若々しい覇気と鷹揚な
やさしさに充ちた演奏、そして生涯最後のコンサートのライブの「
ピープル・タイム」の2枚目での深く、息の長い叙情、どちらも素
晴らしい。
トランペットでは、ケニー・ドーハムの「静かなるケニー」。
若いときジャズ喫茶で幾度と無く聴き、何度心地よく眠ったかわか
らない。
ギターでは、ジム・ホールがビル・エバンスと共演した「アンダーカ
レント」が力でなく、感性の静かなせめぎあいと高揚をもたらす。
ボーカルにもいいものがある。
ヘレン・メリルが天才中の天才のトランペッター、クリフォード・ブラ
ウンと共演した「ヘレン・メリル」は、鳥肌がたつような美しさと凄みを
持っている。
アットホームの極みは、エラ・フィッジェラルドとルイ・アームストロン
グが共演した「エラ・アンド・ルイ」暖かく、優しく、包み込む。
前衛的なものも一つ。
エリック・ドルフィーの「AtTheFiveSpotVol.1」は火の出るような緊張
感がたまらなく気持ちいい。
最近のジャズはほとんど聞かない。
変にソフィスティケートした気取ったよそよそしさを感じ、何かをつき
つめようというエネルギーや、人間としての営みや声や匂いを感じ
ないので面白くない。
その中では、ゲイリー・バートンがチック・コリア、パット・メセニーた
ちと組んだ「LikeMinds」は伝統に新しい一面を加えた隠れた傑
作だ。
私が新譜が出る度に買ってしまう唯一のアーティスト、ギタリストの
パット・メセニーは、いつもじっくりと音楽に取り組み、積み上げた
音楽の密度を持っている。
現代の芸術のあり方を示す。
最高傑作「シークレット・ストーリー」は、美しくしかも人の存在の根本
を見据えている。
ベーシスト、チャーリー・へイデンと共演した「BeyondTheMissouri
Sky」ではセンチメンタルにならずに心のノスタルジーを実現すると
言う至難の技をみせ、ひたすら美しい。
ジャズは、アメリカが生んだ最高傑作と思う。
今回おすすめしているものは、スロー・バラードと言われる聴きや
すいものがほとんどで、聞いて安らぐものばかりだ。
しかし、音楽もアメリカのかかえる矛盾や焦燥感を前提にしている
以上、どこかざわざわとしたきな臭いものが心に残る。
それが、魅力でもあり、いつもは聴けない理由でもある。
最強が、常に最高とは限らない。
それだから音楽は面白い。

今、この一枚   その4.若々しい老い 「アバドのマーラー4番」

今、この一枚   その4.若々しい老い
「アバドのマーラー4番」

清清しい高原の夏の朝を思わせる透明な音が紡がれる。
朝露に光があたり、生まれたてのような草の緑を映し出す。
日々の澱は洗い流され、今また世界が始る。
クラウディオ・アバドが最近録音したマーラーの第4交響曲からは、そん
な情景が見えるようだ。
けれどアバドが若く溌剌としているかというとそんなことはない。
髪も艶や張りがなくなっているし、肌にも明らかな老いの影を感じる。
口元もしまっていないことも多く、指揮棒を持たずに出す指示もどこかぎ
こちない。
それにもかかわらず、出てくる音は他の誰の指揮よりもみずみずしい。
もちろんアバドも最初からこうではなかった。
若いときの指揮する後姿は、力強くしなやかで獲物を追う猛獣のようでも
あった。
その頃アバドは、若手で最も有望な指揮者として期待され、ウィーン・
フィルやベルリン・フィル、スカラ座などと共演し、確実に成果を上げてい
く。
美しい外見と真摯な姿勢で誰からも好感をもたれ、進む一歩ごとに皆が
注目し、本人も努力すれば何でもえられると思っていたかもしれない。
とりわけロンドン交響楽団とは相性がよく、透明感がありながら力強く、
起伏と情緒のある音楽は新しい時代を感じさせた。
その人気と実力を買われ、カラヤン亡き後選考に難航していたベルリン・
フィルの音楽監督に選ばれたのは当然の流れかもしれない。
しかし栄光の頂点にいるここから何かが狂いはじめる。
共演する音楽家たちや楽団員にはアバドを支持する声が多いのだけれ
ど、評論家たちには酷評されることが多くなる。
論調はおおむね、「何も新しいことをしていない」というものだった。
アバドの指揮には無駄な動きがない。
これみよがしなゼスチャーで観客や評論家にアピールする姿勢は皆無
だ。
旋律をよく歌わせながら均整のとれたアンサンブルを積み上げていく。
ウィーン・フィルやベルリン・フィルなどの明確で強い音色を持った個性
的なオーケストラでは、音楽の質は高くても、そこにアバドの姿勢を感じ
させるものにはなりにくい。
クラシック音楽に、強烈なメッセージやカタルシス、人間の感性の厚みや
澱を求める人たちにとっては、アバドの演奏は物足りなく感じる。
私自身もロンドン交響楽団時代のアルバムはいくつか持ち注目していた
が、ベルリンに移ってからはほとんど聴かなくなってしまった。
オーケストラの団員との関係も次第にギクシャクしていったようだ。
アバドも自分の限界を感じていたに違いない。
しばらくして胃がんを患い、ベルリンを離れてしまった。
これは小沢征爾とウィーン・フィルとの関係にとても近い感じがする。
二人ともほぼ同年代で、歴史に新しい風をふきこむことを期待されていた。
小沢もやはり、ストレスのためか癌になってしまった。
そして小沢に斉藤記念オーケストラがあるように、アバドにモーツァルト
管弦楽団とルッツエルン祝祭管弦楽団がある。
何れも常駐のオーケストラではない。
夏のオフシーズンに編成され、集っている。
アバドも小沢も、トップの座に安住せず、若く優れた人たちとよりよい音楽
を目指そうとする姿勢が、彼ら自身の糧となっていった。
反面そうした清新の気概が、保守的な人たちには受け入れられない理由
でもあるかもしれない。
集ってくる奏者たちの質は驚くほど高い。
文字通り、選りすぐりだ。
特にルッツエルンでは、ソリストやベルリンのトップ奏者、コンサートマス
ターなどがたくさん参加している。
世界一流のハーゲン弦楽四重奏団の全員が、弦楽器の一団に混じっていたりする。
そしてなによりすごいのは、そんな超一流の天才ばかりのオーケストラ
で誰一人自己主張の強い表現をしないことだ。
自主的で創造的ではあるが、音楽の全体の流れに寄与している。
音は弱音から最強音まで揃っていてどこにも曇りや濁りがない。
特に弱音の美しさとニュアンスはこれまでのどのオーケストラに聴くことが
できなかった。
最強音も力強さを演出するために割った音を出すオーケストラもあるけ
れど、ここではそんなわざとらしさとは無縁に、音の香気が失われない。
力に頼らない音楽の広大なダイナミズムが感じられる。
アバドの人柄や音楽への姿勢に共感した人たちが、同じ語法で同じこ
とを語りかけている。
それは統一はされていても、画一的だったり、排他的だったり、独裁的だ
ったりはしない。
奏者たちの表情は生き生きして楽しそうだし、一人一人の動きにもそれ
は現れている。
通常のオーケストラだと弦楽器の奏者たち、たとえば第一バイオリンなど
の動きはある程度統一され整然としているのだけれど、ルッツエルンの
場合は一見バラバラだ。
しかしみんなが自分の感興にそった動きをしている。
天才揃いのオーケストラだから、音は見事に一致しているのに、一人一人
の動きがまちまちなのはとても興味深い。
整体法の活元運動に近く、内なる感覚と表現された音の動きが深いレベ
ルで密接につながっている。
見ている私たちもその動きに引き込まれ、なんとも楽しい。
こんな動きを引き出すアバドは、音楽家としても人間としても高いレベル
に達していると思う。
動きは少ないし、細かな指示も多くは出さない。
それが奏者たちへの信頼からきているのは間違いない。
指揮者がいなくても一応の音楽をなりたてさせられる人たちなのだ。
そんなオーケストラを前にアバドがやっていることは、音楽の方向の指示と
集中力の統御だと感じられる。
音楽の表面を磨いて、多くの人に受け入れられ、高く売るなどということ
とは対極にある。
媚びを売るようなこれ見よがしな表現や技術の聴かせどころでのアピール
などはまったく見当たらない。
アバドはベルリン・フィルの第4代の芸術監督だったが、第3代のカラヤン
とは対極に語られることが多い第2代のフルトベングラーと共通のものさえ
感じる。
フルトベングラーは、ブルブルと振るえるような分かりにくい指揮であやつ
り人形のような動きだったが、、出てくる音は団員の集中力と気迫を集め
た、凄まじく素晴らしいものだった。
ある団員が語っていたフルトベングラーのエピソードで、「ある日他の指揮
者でリハーサルをしていた時、突然にオーケストラの音が良くなった。気
がついてふっと出入り口を見るとフルトベングラーが立っていた。彼はいる
だけでオーケストラの音を変えてしまう。そんな人が心を開いて指揮して
いたら私たちもそれに答えざるをえない。」というものがあった。
アバドは若い時、フルトベングラーを研究する会を開いていたと聞いたこ
とがある。
洗練されつくしたアバドの動きは、フルトベングラーとは全く違うものだが、
団員の集中力に訴えて音楽を作るというのは共通している。
そういう意味ではアバドはフルトベングラーの精神的後継者といえるだろ
う。
マーラーは近年、特に1970年以降に人気がでてきた作曲家だ。
20世紀前半に活躍していたマーラーは指揮者としては認められていたが、
作曲家としての評価は低かった。
素直な純真とアイロニー、誇大妄想的憧れと絶望が葛藤をくりかえす交
錯した音楽は、当時の人たちには奇異ととらえられた。
現代の世相を先取りしていた。
そんな複雑な音の洪水のどこをポイントに演奏するかでずいぶんと違っ
たものになる。
人間性の巨大なドラマとして熱く厚くうねるような演奏も可能だし、現代音
楽として分析的に病理を暴くようにやる人もいるし、マッチョにひたすら音
の快感を追及する人もいる。
若い頃からマーラーを得意としていたアバドは、どちらかというと中間派
という感じで、感情を露骨に表現せずに透徹した表現で音の美しさに特徴
があった。
反面、弱音にこだわるあまり、迫力の不足を感じさせることも多くあった。
その傾向は年老いた今でも変わらないが、このルッツエルンのオーケスト
ラからは常に弱音の透明に息づいたニュアンスを期待できるため、最強音
を気がかりなしに使えているようだ。
強い威圧的な音を極度に嫌う、ピアニシモの鬼というイメージのアバドが、
思う存分に旋律を歌わせ、時として瞬間の爆発をリードする様は見てい
る私たちにも心地よい。
死の淵から生還したアバドの喜びが手に取るように感じられ、老いもまた
よいものだなとこちらにも生きる希望がわいてくる。
特にこの第4交響曲は「天上の生活」を表現したものとして9ある交響曲中、
最も平穏な安らぎに充ちている。
アバドの音楽を感じるのに適した曲だ。
バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮したものが私にとってはこの第
4番の特別な演奏だったけれど、ここに聴けるものは音の美しさや精神の
純度からいってはるかに凌駕している。
いい音が出たときに見せる会心の笑顔が、老いた表情を一瞬の間に清清
しく華やいだものにかえる。
深夜これを見終わったとき、私のほほを暖かいものが伝った。
永遠の美を求める情熱を年老いても持ち続けられれば、人は若々しさを
失わないのだと確信できた。
偶然の出会いに必然を引き寄せられる芸術の素晴らしさを再認識した時
だった。
(このDVDは定価3455円です。11月の旬宴の会でかける予定です。)

晴屋の青い扉 その35 バカは嫌い!!!

始めに断っておくけれど、私は自分を頭のいい人間だとは決して思って
いない。
生まれつき物忘れが激しく、記憶力が乏しい。
私が歩いた後には、忘れ物や忘れた事がいっぱいに落ちているので
はないか?
そして歳をとって、ますます新しいことが覚えられなくなってきた。
携帯はちゃんと使えないし、電気製品のマニュアルも苦手だ。
電話番号は数個しか覚えていられないし、名前や数字も覚えるのが苦
手だ。
学生時代から、年号なども覚えられなかったし、公式や定理もだめだっ
た。
それでも、公式を1回分解して自分なりに組みなおして理解すると覚え
られるようになる。
名前を覚えられなくても、お客さんが何が好きとか、品物にどういう反
応したとかは覚えている。
動きとしてなら、すっと頭や身体に入ってくる。
極めて狭い範囲にしか働かない、固く不器用で、わがままな頭だ。
だから人のことを、どうのこうの言えるような者ではないことは、分かって
いる。
ただ自分の事は、自分で考えられる程度の頭は持っている。
他人のことはよく分からないから、馬鹿ではないという程度だろう。
しかし、最近、自分が馬鹿を嫌いだということに気がついた。
それに気付くのに五十年以上かかっているのだから、本当に大した
頭ではない。
けれど、体力とともに頭の許容力が減退しているせいか、頭がちゃ
んと働いていない人間をみると、無性に腹が立つ。
他人の悪口を言う時でも、本人の前で言えることは陰口にならない
という信念を持っている私だが、今回は差しさわりがあって、さすがに
具体的には書けない。
幾つかのパターンがある。
教わった知識や情報を鵜呑みにする人は、私には馬鹿に見える。
その理屈や知識が現実に合っているか?
誰が何のために流した情報なのか?
自分にとって何なのか?
それらを検証しないで信じる感覚を私には理解できない。
TVや本から与えられる情報や流行、玄米食を含めた健康法等も
自分にとっていいものだと確信を持てるまで試し、それから信じれ
ばいいと思う。
良いと言われているものを選んで、食べているつもりが、逆に食べら
れているように見え、気持ちが悪い。
自分の内側の感覚を見据えていれば、必要な物とそうでないもの
の区別は、頭を働かせないでも、ちゃんとつく。
知識に躍らせれて、自分の人生を見誤るなんて、勿体無くバカバ
カしい。
もちろん勘というものも人間は持っているけれど、自分が何者で、何
を求めて生きているか分からない時の勘なんて、当たりと外れが
半々で当てにはならない占いみたいな物だ。
何を信じるのも、当てにするのも勝手だけれど、少なくともそれが
自分に何なのかを確信するまでは、他人に話したり勧めたりすべ
きではないと思う。
熟成しない知識が世の中に多く流布して、うるさい。
子育てがちゃんと出来ない教育評論家、自分の不健康を自覚で
きない健康法の指導者、自分の生きる立場を無視して他人を揶
揄する評論家たち。
それらの知識に踊らされるミニ専門家や即席の評論家。
ブランド品や宝飾に夢中になる感覚も理解しがたい。
ゴルフや高級車も存在価値が分からない。
それらは何か、満たされないものの代替品のように見える。
それなら本当に必要なものを求めたり、作ったりした方がいいだろ
う。
日本だけではなく、アメリカの大統領選挙などを見ていると、アメ
リカ人の御目出度さと馬鹿さかげんには呆れるしかない。
もちろんまともな指導者も多くいる。
しかし、その人や大多数の人には正しいことでも、私にとって正しい
かどうかは分からない。
こうして突き詰めていくと、直線的で単純な頭の私は、簡単にオー
バーヒートして煮詰まってしまう。
もっと多くの人たちが、普通に毎日の暮らしを生き、自分の人生を
全うできないものだろうか?
歳取り行く私は、老婆心ながらも次の世代の行く末を心配してしま
う。
けれど、晴屋みたいな地味で、小さくて、真っ当な八百屋を続け
ることしか、私には出来ない。
プライドが高い人は、自分のプライドを傷つけられたことを認めな
い。
馬鹿も、自分が馬鹿だと分からないから馬鹿なのだ。
だれでも馬鹿だけれど、自分の馬鹿さ加減を知れば、絶望もある
けれど本当の希望もある。
それなのに、こんな役に立たない文章を書いている私が一番馬鹿
なのだと知りつつ、やめることが出来ない。
おいしい物に出会った喜び、作る楽しさ、生きる充実は、こんなつま
らない文章からは伝わらない。
本当に、馬鹿だなあ。

旬の音楽と野菜とからだ9月 その7 オレンジ色の季節

旬の音楽と野菜とからだ
その7 オレンジ色の季節

まだ、暑い日も多い9月だが、風の中には確実に秋の気配がある。
秋は実りの季節。
夕焼け空に、柿、みかんも出始めて、豊かなオレンジ色が印象に
残る。
美味しい物もたくさん出回って、動物たちは冬ごもりの準備で、せ
っせと食べ、肝臓に栄養をためこむ。
人間も寒さと共に皮膚も骨盤もしまって冬の寒さに耐える準備をは
じめる。
それでも、冬は免疫もそれほど働かなくてもすごせるので、いっ
ぱい食べる必要はない。
美味しい物をいろいろと、少しづつ食べるのが、秋の楽しみとたし
なみだ。
栗やりんご、みかん、味の濃い秋茄子、舞茸をはじめきのこも美味
しくなる。
豊かさも、多すぎれば毒になる。
夏の天候のしんどさで、肝臓が草臥れている人は食べすぎは悪
いが、チーズをはじめとする良質のタンパク質は肝臓を休めるのに
役立つ。
このバランスは、頭の要求でなく、お腹の要求を感じていないと分か
らない。
慣れてくると、下腹に手をあてて聞くと身体が答えてくれる。
もちろん言葉ではない。
息の深さやお腹が暖かくふわっと柔らかくなる感じで見極める。
冷たい感じや、硬くなるのは不快の証拠だ。
これは食べる物だけでなく、道を決めるときやCDを買うとき、何か
大事なことで迷ったときにも使える。
身体は頭より正確に先に知っている。
自分の感覚の深いところの欲求で生きていれば、余分な物はず
いぶんといらなくなる。
秋が進んで、長雨のシーズンになると身体も湿気ってくる。
この季節は汗も出にくくなっている。
腎臓にも負担がかかってくるので夏に汗をあまりかいていない人た
ちは、余計にしんどくなる。
秋の体調の維持には暖かい水分が欠かせない。
体内の水の循環が促進され、身体が温り、不必要に水分が出て
身体が冷えるのを防ぐ。
老廃物は尿として体外に出るけれど、少ない水分から老廃物を
漉し出すのは腎臓に負担がかかる。
身体に水をどうとどめるかで、感受性のうるおいや体力の余裕が
ずいぶん違ってくる。
暖かい水分と言っても、珈琲、紅茶、緑茶などのカフェインの強い
物は利尿作用があって、水分を体外に出してしまうので有効では
ない。
ほうじ茶や番茶がおすすめだ。
牛乳やジュースなども水分としては、役にたたない。
白湯もいいけれど、うどんなどの麺類のつゆ、鍋物などの水分は
自然に身体に入ってくる。
特にいいのはみそ汁で、大豆のタンパク質や肝臓に必要なミネラ
ルも豊富で身体を温めてくれる。
秋が一番美味しく感じる。
水の質も問題で、縄文水のようなさらっとして吸収のいい水は、体
液の循環を促進し、腎臓の働きを助けてくれる。
10月になって本格的な秋になるとジャズやオーケストラものなどの
屈折していたり壮大だったりする音楽が聞きたくなるけれど、この
季節はまだ大人しく叙情的なものが心地良い。
おすすめなのはケルトの音楽たちだ。
ちょっと切なく、何故か懐かしい感じがする。
逆境で虐げられた中、懸命に生きる逞しさと心根のやさしさが私
たちにも訴えてくる。
縄文水並みに好きなのが、モイア・ブレナックのTheVoyageOfBran
だ。
バイオリンのゆったりとした響きが、それでいいんだよと私たちに優し
く語りかける。
みそ汁は、ドロレス・ケーンのボーカルでNightOwl。
森の奥深くから響いてくるような不思議な音だが、何故か昔から
知っているような気がして心が休まる。
少し軽いものでは、シークレット・ガーデンのWhiteStone。
映画の情景のようで少し他人事だが、水々しさが魅力だ。
イギリスの作曲家エルガーも秋にぴったりの音だ。
「さらば夏の光よ」とチェロが歌っているようなチェロ協奏曲は特に
有名だ。
ジャックリーヌ・デュプレの壮絶といえる叙情、ピーター・ウインスペ
ルウェイの竹のようにしなやかな感性、どちらも素晴らしい。
「イギリス」の別名を持つドボルザークの交響曲第8番も、秋の黄昏
の美しさを音にしている。
これはセル指揮のクリーブランド管弦楽団のEMIでの録音がいい。
セルの白鳥の歌でもある。
アメリカにもいいものがある。
二ール・ヤングのHarvestMoonは今は出会えない、草の根の逞しさ
と優しさがあり、落ちつく。
ジョニ・ミッチェルのCourtAndSparkも音の密度が高く、アメリカ
の黄金時代を感じさせる。
アメリカは本当の豊かさを忘れてしまったのか?
少し若いところでは、トレーシー・チャップマンという黒人女性の
TracyChapmanは、昔好きだったフィービー・スノウを思い起こさせ
る力強い弾き語りだ。
こういう人が出てくるのだったら、アメリカもまだ捨てたものではない
と、少し嬉しくなる。
日本の片隅でのたわ言だけれど、秋にはそんな気分がよく合う。

晴屋の青い扉 その33 落葉と言葉

晴屋の青い扉
その33 落葉と言葉

急に冷え込んできた、今日この頃。
先日のトラックの引き売りの朝は寒く、真冬のようだった。
それでも日中の日差しは暖かく、あちこちの紅葉や落葉が美しい。
寒いせいか、給料前のせいか、お客さんが少なく、こんな文書の下
書きをしながら、道端にこんもりと積もったプラタナスの黄緑や茶色
の大きな葉が、日に照らされて映えるのを楽しんでいる。
私は落葉は、そのままにあるのが好きだ。
晴屋の店の裏の駐車場には、鳥が落とした種から芽吹き、なんとは
なしに切る気がしなくて、いつの間にか大木に成長したミズキが生え
ている。
西洋ハナミズキでなく、昔から日本にある地味で清楚な方だ。
春は新緑、夏は貴重な日陰になり、秋の紅葉も美しい。
けれど近所の手前、落葉を掃除しないわけにはいかない。
しかし団地は人手不足で手がまわらないらしく、伸び伸びと落葉が風
と遊んでいる。
本当に気持ちがいい。
それにしても行きかう人たちが、みんなしかめっ面なのが気にかかる。
どうしてこんな時に、ニコニコしていられないのだろうか?
まあ、もちろん私も、たまたまお客さんがいないから出来ているだけ
のことだけれど。
年末に近づき、年1回発行の「晴屋カタログ」の製作に追われてい
たが、なんとか完成させることができた。
今年は全商品の星取表やランク付けをする気がしなくて止め、晴
屋店員たちのマイベストを載せてみた。
それぞれに個性が出ていて面白い。
夜寝る時間を切り詰め、やっと完成間近になった頃、野菜の紹介
の文章に取り掛かった。
けれど筆が進まない。
いっそ、昨年と同じ物を載せてしまおうかとも思ったが、やはりそれも
出来ない。
それで説明するのを諦め、書きたいことを書いてみようと思った。
説明するのが面倒くさいと感じるのは、私としては珍しい。
感情の表現は得意ではないが、物事の説明には苦労しないタイプ
の人間だ。
しかし、最近は年のせいか億劫になる。
そうして出てきた文章が以下のものだ。

美味しい野菜
人が長い間に見つけ、育んできた豊かさと美味しさの結晶
人間の努力の賜物であり自然の恵みそのもの
けれど、思いあがった人間は何でも思い通りになると錯覚し、
便利な農薬や化学肥料で簡単に手に入れようとした
そんな野菜たちは、
縮こまり、硬くなって身を守る
美味しくない野菜は、野菜が悪いわけではない
感謝や満足無しに育てられ、
食べられる野菜は、幸せではない私たちも便利な世の中に生きてい

寒さにも、暑さにも苦しまない好きなときに好きなだけ食べられ、
いつでも蛇口をひねれば水が出て、TVをつければ、飽きることはない
しかし、本当に幸せなのか?
農薬に守られ、化学肥料で育った野菜たちとどこが違うのか?
自然と共存する必要は無い人間の思い上がりだ
私たちが自然そのものになればいい
本当に満ち足りて、心から喜べるもので充たしていけばいい
それが自然に生きることだ
美味しい野菜は糧であり道を照らす光だ
新しい世界を拓き次への歩みを支えてくれる
野菜を選ぶことで私たちも選ばれるどの光に導かれ
どこに行くのか?
光はほのかで、強くはない
しかし、一番奥まで届く
じわっと湧き出る静かな感覚が
近くと遠く、過去と未来を繋げる
野菜は永遠の伴侶
自然からの使者
美味しい野菜を食べよう

苦し紛れに書いた文書なのに、書きたい事をかけたような、心の
奥に光が当たったような感じがある。
何か一皮剥けたのかもしれない。
やはり苦労はしてみるものだなと思うのと同時に、野菜に導かれて
いるのだなと改めて感じる。

晴屋の青い扉 その42 秋の楽しみ

ザッ、ザッ、ザッ。
竹ぼうきがゆっくりすぎず、慌しくもないリズムで動いていく。
北風が吹いて、掃いたそばから葉を道に撒き散らす。
ザッ、ザッ、ザッ。
気にせずに淡々とほうきを動かしていると、自動車の騒音なども忘れて
透明な時間が流れていく。
ザッ、ザッ、ザッ。
心地よい音が響くたびに、道の落ち葉は、山になっていく。
こんもりした葉たちは、まだ微妙な色あいを保っている。
苦にせずにやっている仕事だけれど、私が掃除好きかというとそんな
ことはない。
作るのは飽きずに続けるけれど、片付けは得意ではない。
それに落葉に朽ちる間際の静かな光を感じるので、道に落ちている方
が心安らぐ。
こんなものを邪魔だと思う人の気持ちは私には分らない。
晴屋のあるビルの裏手には、一本のミズキが生えている。
最初は何もなかったこの場所に、ある日、芽が伸び始めた。
最初は何かもわからず、車の出入りの邪魔だから切ってしまおうというメ
ンバーの主張も何度かあった。
けれど何故か切る気がせず、次第に伸びるにしたがって邪魔だった葉や
枝は車の屋根の上にいってしまった。
そうすると日陰ができて、夏の日など、とても具合がよい。
ミズキといっても、街路樹でよく見かけるアメリカ花ミズキではなく、日
本に昔からあるもっと地味なものだ。
春には、細かな白い花が集まって風に舞う帽子のように楚々と咲き、秋の
紅葉も穏やかな黄色と茶のグラデーションで私たちを楽しませてくれてい
る。
今では3階の高さまで伸び、幹も30センチを越す太さになっている。
食事をとる狭い台所の合間から見える緑に、どれだけ心を休められてい
るか。
ミズキは水を吸い上げる力が強く、枝を折ると水が沁みだすことからこの名
がある。
元々は湿地だった場所に立っているこのビルの土の余分な水を吸い
上げ、地盤をしっかりさせてくれてもいるこのミズキを、私は天がくれた
守り神だと、ひそかに思っている。
だから近所からクレームが来ないように、余分な枝を切ったり、葉の掃除
を横着な私としては小まめにする。
近所の手前というよりは、ここに生きるものとしての責任と感じている。
そして何より、竹ぼうきのしなやかな感触と心地よい音に惹かれる。
身体と心が仲良しになって、今一瞬を生きる喜びがあふれる。
しかし、心地よく響く竹ぼうきの音をある日、「この音が好きだ」と頭で理
解してから、その受け取りかたが変わってしまったことに気づいた。
ただ無心にほうきを動かしている時には、無垢な喜びを感じられるもの
だったのに、「好きだ」と客観的に見えてから、不純なものが加わり、
まっすぐに向き合えない。
ほうきを動かして楽しんでいる自分を見ている自分を感じてしまう。
楽しみが半減してしまった。
まったく、もったいないことをしたものだ。
人間はこうして知ることで、客観的に説明でき、不慮の事態に備えること
もでき、社会の中で大人になっていくのだけれど、こどもの純真な喜び
を失っていく。
ザッ、ザッ、ザッ。
心の曇りをどれだけ払えるか。
ザッ、ザッ、ザッ。
静かに進む時を、どれだけすくいとれるか。
歳をとって、またこどもに戻り、自然にかえっていくのなら、老いも悪い
ものではないだろう。
ザッ、ザッ、ザッ。
竹ぼうきの刻むリズムで。

晴屋のなんでもBEST10  その32 夏の疲れを癒すもの

晴屋のなんでもBEST10
その32 夏の疲れを癒すもの

毎年の異常気象で、夏のしんどさは増すばかりだ。
免疫機構は働きづめで体力は消耗し、肝臓や腎臓の疲れは
ピークに達する。
ゆっくりと休んで、美味しいものをほんの少しづつ味わって静かな
暮らしをしていればいいのは分かっていても、そうもしていられ
ない。
夏の疲れを癒し、冬に耐える身体を準備しなければいけないこ
の時期は、秋の味覚を少しづついろいろと味わい、温かい水分
を積極的にとって代謝を維持するのが大切だ。
温かい水分といっても珈琲や紅茶、緑茶などはカフェインが強い
ので、利尿作用があり水分を体外に出してしまうのでかえって冷
えやすくなる。
番茶や味噌汁、スープ、鍋などが身体に沁みる美味しさだ。
もう少し積極的に身体に働きかけて夏の疲れを解消してくれる
ものを選んでみた。
美味しく感じるものは身体にいいのだと思う。
1.屋久島縄文水
吸収力の強さでは群を抜いている。身体の隅々まで沁みこんで
代謝を助けてくれる。疲れた腎臓の負担を軽減する。そして何
より美味しいから、水を飲みたいと思う。身体が欲する味だ。
2.葡萄 巨峰やシトロンネル
どう糖などの果糖は直接身体に吸収され、消化器の負担が
少ない。とりあえずのパワーをえるにはもってこいの秋の味だ。
3.リンゴ
同じ果物でもリンゴは身体にやさしい感じがする。ゆったりと包
みこんで受け止めてくれる。疲れている時、体調の悪いときに
沁みる美味しさだ。
4.ルイボス茶

肝臓の調子が悪い人にはまずこれをすすめる。独自のミネラル
が腸内有効菌の働きを活発にし結果としてあまり肝臓が働かな
くてもいい状態になり休められる。

晴屋のは特に美味しく効果大。
5.ムソー三年番茶
カフェインがほとんど無いので身体にやさしいお茶だ。沸かさ
ずにほうじ茶のようにお湯をさして飲むとフルーティーな味わい
が楽しめる。
6.健康陶器の土鍋
鍋の中の水の力を変え、野菜の美味しさを引き出す。温かいもの
が美味しいこの時期には特に活躍する。味噌汁や鍋もの、煮
物がまったく次元の違う味になる。
7.ゲルクリーム
夏に痛んだ肌の手入れにはこれが一番。寒さに耐えるため硬く
締まっていく皮膚の弾力を保つのにもとても役に立つ。
8.ムソー有機高菜漬け
高菜漬は乳酸発酵でお腹の調子を整えてくれるが、漬け込む
時に同時に大量のウコンも入れる。ウコンは肝臓にもとてもいい
ので、秋にもぴったりの美味だ。
9.どんぶり麺納豆そば
他のどんぶり麺でももちろんいいのだけれど、温かい麺は身体を
暖め代謝を高めてくれる。個人的にはシーフードラーメンもお
すすめだ。
10.甘酒・醍醐のしずく
飲む点滴として夏にも好評の甘酒だけれど、疲れがたまってい
るこの時期にも有効だ。同じ効果を醍醐のしずくにも感じる。
酔うためより身体を休めるための飲み物として役に立つ。八丁味
噌にも同じものを感じる。滋味が身体に沁みていく。

その他、さつま芋や里芋、牛蒡、こんにゃくなども秋に惹かれる
食べ物だ。
さんまの内臓の苦味にも心惹かれる。
まだ科学的に解明されていなくても、美味しいと感じるものには
きっと必要な栄養が充ちているのだと思う。

旬の音楽と野菜とからだ 8月 その6 明暗の季節

旬の音楽と野菜とからだ 8月 その6 明暗の季節
8月は、7月の次の月。
基本的には延長線上だが、夏の天候はピークを迎える。
強烈な光と暑さ。
子どもたちは夏を越すとメキメキと成長し、老人はメッキリ衰える。
明暗を分ける季節なのだ。
免疫機能や解毒作用で働きづめの肝臓の疲労もピークを迎え
る。
肝臓を休めるには、静養するしかない。
感情的なストレスも肝臓に負担をかけるので、心静かに休む時
間を作る。
のんびり、だらだらは私には苦手な行動パターンだけれど、酒を
飲みながらならできる。
もちろん、それでは肝臓を休めることにはならず、秋になって体調
を崩しひどいことになる。
酒のつけは後から払わされる。
肝臓は「物言わぬ臓器」と言われるけれど、目やにや目の充血、
背中の右側の痛みなどに症状は現れる。
腎臓が疲れると、何事にも億劫になり、ものぐさになる。
呼吸器が草臥れると、虚無的に世間が嫌になり、全て投げ出し
たくなる。
肝臓では、気持ちが鬱屈して、イライラし切れやすくなる。
心のストレスが解消できなくなる。
肝臓が草臥れると、しょっぱい物が食べたくなる。
夏はミネラルが不足していることも多いので、良質の塩を美味しく
甘いと感じる間、舐めてみるというのは効果的だ。
不思議なもので、ある一瞬から、同じ物がしょっぱくて舐められなく
なる。
必要なくなると、感覚が劇的に変化する面白い体験だ。
身体の感覚を呼び起こし、意識で納得するのに役立つので、夏
には特におすすめだ。
腎臓の疲れのピークは、本来なら梅雨時なのだけれど、気候やエ
アコンの影響で汗が出ないと、夏にも疲れを持ち越す。
それが秋まで続くと、肝臓と腎臓の疲れが重なり、身体はどうしよ
うもない状態になる。
腎臓を休めるには、汗をかいて、腎臓が働かなくてもいい状態を
作ってから、横になるのが効果が高い。
お風呂や温泉は有効だけれど、寝る前よりは、朝の方が効果が
ある。
夜の風呂は一日の疲れをとるのには効果があるけれど、季節の
疲れや長年の問題には、体力に余裕のある朝の方が効き目があ
る。
休日は、いい意味での贅沢と思って、朝風呂に入る。
でも、風呂上りの冷たいビールや酒はいけない。
せっかく緩んだ内臓を弛緩させ、働きを悪くする。
私も若いときから寝つきが悪く、酒と音楽はそのための必需品だ
った。
けれど、酒を飲んでの眠りは浅く1~2時間で目が覚めてしまう。
それでは頭は休まらないので、次第に頭の疲れが蓄積していく。
若いときなら頭の緊張状態の持続にも耐えられたが、今はもうだ
めだ。
疲れや年齢のせいか、身体を休める話ばかりになってしまったけ
れど、この季節は積極的に動いて汗をかく快感を追求する時と、
ゆっくり休む時のメリハリが特に必要だ。
成長も一時には出来ないし、衰えも一瞬ではない。
夏の疲れを秋に持ち越し、腎臓肝臓が草臥れて冬に耐える力が
無く心臓や他の部分にも負担がかかり、春に余計にだるく動けな
いまま、梅雨になってまた、呼吸器と腎臓に負担がかかる。
こうして年々、感受性を鈍らせ、体力を落としていくよりは、年をと
ってもちろん体力は落ちるけれど、自然に合った暮らしをして、生活
技術を工夫し進歩させて、溌剌と生きる方がいいではないか?
そうした意味でも8月は明暗を分ける季節なのだ。
食べ物も、あっさりした物が美味しいと感じたり、こってりして味の濃
いものが欲しくなったりする。
音楽も7月の続きだけれど、真冬に合っているようなバッハやシ
ベリウスが聞きたいときがある。
感覚的にもかなり極端な状態だ。
薬味の効いたそうめん、味噌をつけたきゅうり、酸味の効いたトマト
のマリネは、身体にすっと入って熱を鎮めながら、自立性を回復さ
せてくれる。
音楽なら、バッハ。
バッハは時として、人間界を通り越して、宇宙の不変の秩序を感
じさせてくれる。
私も若いとき、感覚的に煮詰まって、何度かバッハに救われた。
この季節には「ゴールドベルク変奏曲」が一押しだ。
一見単調な流れの中に宿る確かな足取りと確信。
定番のグールドもいいけれど、ケンプの安らかな静けさ、レオン
ハルトの気迫に満ちた創造性も素敵だ。
昼間は、バイオリン協奏曲かチェンバロ協奏曲などの精気あふれ
る表情がぴったりだ。
クイケンvnとラ・プティット・バンドのバイオリン協奏曲での、柔らか
く、しなやかな美しさ。
チェンバロ協奏曲は、少し硬質だけれど、ピノックとイングリッシュ・
コンサートの前進するリズムと溌剌とした表情が心地よい。
夜の帳が下りて、疲れを感じながらも自分の深い感覚に帰ってくる
時間には、ニコラーエワのピアノがいい。
「主よ人の望みの喜びよ」では、大人にしか持ちえない天心な静
けさを描き、「シャコンヌ」では地の底から湧いてくるような迫力ある打
鍵で、人の心の深淵まで現した。
タイ料理や四川料理、キムチなどの強烈な味に匹敵するのは、シ
ベリウスやR・シュトラウスの少し重くてこってりした音楽だ。
熱いスープや飲み物の延長だけれど、身体の感覚をリセットしてく
れる。
R・シュトラウスの「アルプス交響曲」は、一年のうちでこの時しか
聞かない。
穏やかで、自然、心優しく、ダイナミックなケンペの指揮したもの
に心惹かれる。
シベリウスはなんと言っても、ムラビンスキーの7番とセルの2番の
交響曲だ。
とことんやらないと気がすまない両巨匠が感覚の高みへ連れて
行ってくれる。
真夏の感覚そのものを音にした音楽もある。
サンタナの「天の守護神」は、粘りからみつく夏の感覚にぴったり
だ。
オールマン・ブラザース・バンドの「ライブatフィルモア・イースト」も
熱く燃える演奏で、暑苦しい男臭さ満載なのに爽快感がある。
夏を代表する渋い食べ物、冬瓜やぬか味噌漬けタイプの音楽は、
数年前の映画「ブエナ・ビスタ・ソシャルクラブ」のサントラだ。
キューバのおじいさんたちが、いい味を出している。
関連のCDが何枚も出ているけれど、イブライム・フェレールのボー
カルのアルバムのチャーミングさ、ルベーン・ゴンザレスpfの「イント
ロデューシング」での海のようなきらめき、オリジナルの音源を集
めたRAICESの渋さの極みなどを好んで聞いている。
年をとっても、前に進めるというひたむきさがうれしい。
何年か前だけれど、駅で往年のロックスターがアップで写ってい
ポスターをみかけた。
「不健康な体で、不健康なことができるか」とコピーが書いてあっ
て、思わず笑いながら、本当にその通り、と思った。
不摂生を悪いとは言わない。
生きる、醍醐味だ。
ビールの一気飲みをして、鈍さを競うのでは、寂しい。
密かに、自分の限界まで近づいて、反応を楽しむ。
しかし、不摂生する楽しみを持ち続けるためには、健康を維持し
なければならない。

放射能への対処

毎日多くの品物が届けられる晴屋ですが、その中には茨城産や千葉
産のものも含まれてます。
原発事故の被災地・福島にこちらより近い分、汚染度は東京より多い
かもしれません。
しかし、30年以上付き合っている生産者もいて一概に切り捨てるこ
とはできません。
けれど安全を求めてくるお客さんたちへの責任ももちろんあります。
原発事故以来、ずっと頭の中にこの揺れる気持ちが晴れることはあり
ませんでした。
それでも少しづつ落ち着きを取り戻しはじめ、個別に対応してきた生産者
たちの状況もつかめてきました。
今回まとめてお知らせして、みなさんの選択の基準にしてもらおうと
思います。
まず高橋乳業の牛乳は那須に牧場があります。
飼料の藁はサイレージという昨年収穫したものを発酵させ貯蔵した
もので、今年のものは一切与えていません。
今後は国産の藁は使わない方針だそうです。
毎週行っている放射能測定では不検出でまったく問題がありません。
群馬の野菜くらぶも毎週検査をしています。
こちらも全て不検出です。
同じ群馬のあずま産直ネットでは3月25日に検査した結果がきてい
ます。
キャベツは不検出ですが、その他の野菜は20~30Bq/kgという数字が
出ています。
ご存知の通り暫定規制値は500Bq/kgなのでかなり低い値といえます
がやはりゼロではないこともあります。
ただしそれ以降の時間の経過があり、数値はかなり低くなっているで
しょう。
放射能の検査には通常とてもお金がかかるのです。
茨城でルッコラ等のハーブ類を生産しているレインボーフューチャー
では全て不検出でした。
ここは全てハウスで栽培しています。
千葉で多くの野菜を生産している和郷園のものは小麦以外は不検出
でした。
小麦は晴屋には来ていませんが、数値は104Bq/kgだそうです。
栃木の矢板では晴屋のお米が作られています。
米の収穫はまだですが、麦の収穫は終わりました。
数値は20~30Bq/kgだそうです。
米は多分これより少なくなるだろうと思われ、検出限界以下の不検出
になると予想しています。
新潟の魚沼に牧場のあるアルファーでは、昨年の稲藁しか与えてい
ないので、牛肉などからは不検出となってます。
また四国の山地酪農の牛たちは、基本的には山の草しか食べていな
いので、検査はしていないけれど問題はないでしょう。
以下にまとめてみます。

なお不検出というのは全て測定限界以下という意味でまったくのゼロ
ではないかもしれません。
那須 牛乳 不検出
群馬 野菜くらぶ(レタス・小松菜・法蓮草・トマト・キャベツ) 不検出(ALOKA
社製GMサーベイメーターTGS-186にて測定)
群馬 あずま産直ネット(キャベツ)不検出  長ネギ22Bq/kg  ミニトマト26
Bq/kg  きゅうり30Bq/kg(同位体研究所)
茨城 レインボーフューチャー(ルッコラ・ベビーリーフ・ミズナ・小松菜他) 不検出
(日立協和分析センター)
千葉 和郷園(法蓮草・春菊・パセリ・他)不検出(千葉県農林水産部安全農業推
進課)
新潟 アルファー(牛肉) 不検出(新潟環境衛生中央研究所)
今のところ集ってくる数字に問題がありそうな感じはしません。
けれどその地区では調べていても、生産している畑でとれたものを直接
は調べていないところもあり、この数字だけではわからないところもあ
ります。
それで晴屋でも独自に簡易検査をすることにしました。
CPMやCPSといった単位時間あたりのベータ線とガンマ線の放射
線量をある程度正確に計れる比較的高度な機械があります。
感度のいい機械なので環境中の自然放射能が刻々と変化していく
のがわかります。
CPMというのは1分間に通過した放射線の本数を表しているのです
が、11から28までの間で大きな変化があります。
鉛の箱を作って、環境中のアルファ線とベータ線をカットして精度を上
げています。
ガンマ線のカットには10cm厚の鉛が必要でそこまではできません。
一品目に約一時間かかります。
環境中の放射線量を計測し、次に食品の放射線量を計測してから環
境の量をひけば、食品が持つ放射能の量がわかります。
その数をもとに近似値的にBqの値を求めることができます。
簡易検査だからもちろん完璧ではりませんが、もし40という数字が出た
ら最大で60、最小で20という範囲での値になるという説明を受けていま
す。
絶対値との誤差はありますが、相対的に比べるのには実用性がありま
す。
国の暫定基準値は500Bq/kgですが、晴屋では100Bq/kgという数字
を基準にしてみようと思います。
誤差の最大では150Bq/kgということもありえます。
この数字だからまったく問題ないと言うことはできないかもしれません。
けれど、他の国の基準をみても現状では妥当な値といえると思います。
この基準を作り野菜を売ることで、私たちは茨城をはじめとする生産
者への少しでも支援ができるかもしれないと期待しています。
それを判断されるのは消費者のみなさんですが、私たち晴屋としても
曖昧な表現でなく野菜をおすすめすることができます。
ただし数値の公表はしないつもりです。
相対値としては信頼できますが絶対値ではないので、数字が一人歩き
すると生産者に迷惑がかかる場合もあります。
晴屋のものだけに限り、晴屋の責任においての行為になります。
機械の貸し出しや測定の依頼もお断りしようと思っています。
放射能の危険に心を奪われ、ものの本質を見失う風潮を加担し助長
したくはないのです。
晴屋の店頭にあるものは全部が簡易測定値100Bq/kg(最大誤差で
150Bq/kg)以下という保証ができる ことになります。
放射能はもちろん身体に害を与えます。
しかし有害な化学物質といっしょになる時、相乗効果で被害は増えま
す。
普通は被害の出ないはずの低放射線量でも、だるさや目まいなどの
環境不適応症候群という症状がでるのはそのためでしょう。
また、多少の被爆でも癌になる人の割合が増えるだけで全員がなるわ
けではないのも、遺伝的要素だけでなく、食生活や環境の影響が多
くある証拠です。
私がお世話になっている整体の指導者は、放射能の影響は肝臓で
確認するといっています。
CTやレントゲンの撮影の後はすぐわかるといいますが、今のところ指
導室がある国立市周辺では福島の事故の影響が出ている人はいない
ということです。
ちなみに整体では肝臓と共に盲腸を放射能の排泄の急所として、必
要な時には手入れします。
整体法を創設した野口晴哉が広島に通って確認し、技術として使って
いたということです。
放射能には気をつけた方がいいけれど、恐れていてはかえって自分
の自立性が損なわれ、影響を受けやすくなるでしょう。
数字はあくまで数字です。
それを判断する人の気持ち、受けとりかたでどうとでもなります。
今の天候も人を疲労させますし、普段以上に身体のケアは必要です。
楽しんで、心配の少ない美味しいものを食べること以上の、放射能へ
の対策と癌の予防に有効なものはないでしょう。
放射能のことを調べようと最近はインターネットでいろいろなサイトを
覗いているけれど、「体でなく、頭が放射能に犯されている」というブ
ラックな書き込みがあって思わず苦笑したりします。
癌は精神的なストレスや、感情の欝滞が大きな原因になります。
私たちは食べ物の心配という理性的防御ができるだけでなく、いつで
もゆったりとした気持ちを持つ強さも求められています。

晴屋の青い扉 その58  政治への期待

少し前に「民主主義」への批判めいたものを書いたけれど、私が民主
主義を否定しているかというと、そんなことはない。
むしろこの中でしか生きられないだろうと自覚している。
個人主義者で、一人で黙々と勝手に仕事をさせていれば人一倍頑張
るけれど、人と絡んだり、指示される中で個性を発揮するのは得意で
はない。
リビアや北朝鮮などの独裁国家では不可能だし、中国、ロシアでもま
ず無理だろう。
共産主義国家で一番うまくいっているようにみえる、有機農業が盛ん
で医療費や教育費が無料のキューバでさえ、反社会分子は即刑務所
入りで、厳しい弾圧があるという。
虚弱な私などすぐに潰される。
一部の天才と圧倒的多数のお馬鹿の国、アメリカは好きではない。
もちろんJAZZは素晴らしいが。
不潔は耐えられるけれど、始終人が話しかけてくるインドの豊穣と猥
雑さには耐えられそうもない。
中東のイスラム圏の男社会も肌にあわないだろう。
東南アジアの熱気には魅力を感じるが、自分がそうはなれない。
ヨーロッパは血塗られた歴史が素晴らしい芸術を生んだが、内実は
厳しい階級社会であり、下層の私などとても我慢できそうにない。
それでも東欧だけは魅力を感じる。
食べ物やお酒もおいしそうだし、成熟した昔からの豊かさが残っている
ような気がするが、だからといって確かめる気力はない。
こんな身勝手な私なのでここ以外ではとても生きていけないように思
う。
そういう意味では私も見せかけの民主主義の中で安穏と生きる一人
であるに違いない。
とても否定出来るような者ではない。
民主主義は見せかけと言っても、多数の利益に奉仕しているという
一面は持っている。
しかしその圧倒的多数が飼いならされ、安定と継続という現状維持を
目的と手段にしてしまっている。
急進や革新を望まない。
これは私のようにいつも前のめりで何かを作り続け、止まれば倒れてし
まう人間にとっては面白くない。
私だけでもこんなに偏屈なのに、これだけの数の雑多な人間を全員満
足させるのは実際問題に不可能だ。
そして世界には様々な支配原理があって、手かせ足かせになっている。
穀物メジャーという食品の巨大商社、UPやAPIという情報を発信し操作
する巨大通信社、石油の利権を握る商社、軍事力はダントツだが経済
は破綻しそれでもプライドは高いアメリカなど、他にも多くの確固とした
巨大で、堅牢なシステムが出来上がっている。
それが世界の安定に寄与している部分もあるけれど、一国を代表する
政治家でもそれを動かし変えることは不可能だ。
政治家の仕事は国民を理想に導くことでなく、多くの利権の交通整理
を問題なくこなすことになっている。
だから、誰がやっても大きな破綻は起きないが、誰がやっても素晴らし
い成果をあげることは難しい。
成功の見込みの無いゲームに多くのエネルギーが消費されている。
政党を代表する党首の人気で選挙の結果が決まるのはどこの国でも
同じだけれど、何がしかの目先のスローガンの差だけで、しばらくす
ればすぐに化けの皮ははげて人気が落ちると、また別の公約をかざす
次の首相候補がでてくる。
しかし実際、政策や予算の裁量の範囲は広くはない。
震災にあった人がテレビのインタビューで、「総理なんて誰がやったっ
て同じよ」とクールに言っていたけれど、本当にそうだと思う。
悲惨な政治体制や戦争で、人間は不幸になるが、反対に良い政治
の下でみなが幸せかというと、必ずしもそうではない。
そういう意味では政治は自動車や石油と似ているところがあり、多少の
毒は撒き散らすが、世の維持には不可欠な必要悪であるかもしれな
い。
それでも政治好きという人は世の中に多い。
それ自体は極めて健全なことだ。
人間に生まれてきたのだから、人間として人間に訴えていくことは必然
のことだ。
「人間を動かすことほど面白いことはない」という政治家の言葉を見た
ことがある。
こうした人間らしい暖かさが世を活気あるものにし、高揚を生むことも
あり、悲惨をうむこともある。
しかしどうも私はその辺の感覚が薄いのだ。
先ほども書いた通り、人から離れてずっと何かを作り続けることを好む。
もちろん何も感じないわけではないし、選挙にもほとんどいく。
けれどだれがやっても大きくは変わらない現実が見えてしまう。
そういう意味では私が政治家に期待していることは極めて少ない。
しかし少ない中でどうしても期待し、望んでしまうのが原発の廃絶だ。
こればかりは、個人ではどうしようもない、今生きる全人類の、これから
生まれる全人類の未来を左右する問題だ。
経済の成長を犠牲にしても、いやそれだからこそ、脱原発はやらなけ
ればならない。
成長や開発の幻想から人間が解き放たれ、自分らしく生きる機会をえ
る契機となる可能性がある。
既得権を持つ経済界やプロの政治家には無理なことだろう。
彼らには現状の維持と幻想の継続を求められている。
マスとしての人の支配にはそれしか手段はないかもしれない。
しかしそれは限界にきているし、現に原発事故は起きた。
多くの人の反発を覚悟の上で書くと私は菅総理に期待している。
彼はプロの政治家としては未熟だ。
就任当初、消費税の問題をみんなで協議しようと呼びかけて不興をか
った。
菅総理は必要なことだからみんなで解決しようと呼びかけたのだが、
政治家としては言ってはならないことだったのだ。
あくまで市民運動の延長として政治をとらえているようだ。
だから、今度の脱原発に向けての発言もすることができた。
これから広島や長崎での式典で、何らかの発言があり、それで次の
動きが生まれるかもしれない。
衆院の解散や新党の結成などということもあるかもしれない。
それでも一気に脱原発が可能になるとは思えない。
しかしこの一石が、次の動きをうみだす布石になってもらいたい。
政治への期待が薄い私だが、今後の菅総理の動きには注目し、期待
したい。
青森県知事選挙での保守の強さには驚かされ落胆も大きかったが、
まだ可能性はあると思いたい。

晴屋の青い扉 その57 作ること、育てること、希望をもつこと

整体法の野口晴哉は「子どもは認める方向に育っていく」と言っている。
親の注意を集め、模倣しながら新しいことを獲得してそこに自分の生命
を吹き込んでいく。
そんなこどもたちが好奇心から起こした悪戯を見て、「悪いことだ」と認
めれば、こどもは自分は悪いのだと思いはじめる。
「こんなことを考えて頭がいい」と認めれば、頭を使って新しいことを考
える快感を覚えていく。
テストの結果が良かったときは、「頭がいい」と認めればほめてもらおう
とテストの点をとろうとする。
「この科目が好きなんだね」と認めれば、興味を持ってその勉強にと
りくんでいく。
同じことをしても、認める角度によってこどもの伸びていく方向はまったく
違ったものになる。
もちろん今の世の中でまったく勉強が出来ないのも、大人になって困る
ことが多いだろう。
しかし、教えられたことにひたすら従順で自分が何者であるか追及し
ないで生きるのも、この世に生をえた意味を失ってしまう。
その両立やバランスをとらなければならない難しい時代にわたしたち
は生きている。
「三つ子の魂、百まで」と言われ、幼少期に潜在意識に入ったものを
変えるのはとても難しいことだ。
しかし、不可能ではない。
一番の機会は、こどもを育てることによって、自分も育つことだろう。
最初から完全無欠な大人などいない。
こどもと一緒に悩み、全力で事態に立ち向かい、過去の心の傷を思い
だしながら共に過ごすことで解決していく心の問題は多くある。
こどもを相手にしていても、決まりきったことの強要ばかりでは、共に育
つことはできない。
同情や指導といった押し付けではなく、こどもの気持ちを自分のこと
として感じる日本人特有の共感が求められる。
それと同時にこどもを育てる角度も意識して持ち続けるのは簡単なこ
とではない。
それを両立して、柔らかさと冷静さを併せ持つのが大人の条件だとも
いえる。
大人にとっての解毒剤になるもうひとつのことは、「作る」ことだろう。
作るのはものを育てることなので、子育てと似ているところもあるけれ
ど、決定的に違うのは人間相手ではないことだ。
相手の経過を待ったり、しがらみで手の出しようがないということが少な
い分、より創造的に自分を展開できる可能性がある。
頭の中にイメージとしてあったものが、自らの手で形になり、ものに命
が吹き込まれて主張を始めるのを目の当たりにするのはとても心地よ
いものだ。
もちろん途中経過としては、自分の限界にぶちあたり何もかも放り出し
たい時もあるだろう。
それでもまた作りたくなる、その心の動きこそが生きていく感覚であり、
絶望の底にいる裸の自分と向き合う時でもある。
食べるものももちろん新しい感覚の世界を開いてくれる。
これは美味しいはずだと思ったものがそうでもなかったり、予想もしない
味に出会いこれはどうしてなんだろうと考えこんだり、食べることは真剣
に向き合うと多くのことを教えてくれる。
感覚を鍛える手段になりえる。
食べることを楽しんでいるだけでは、感覚を深めることは出来ない。
自覚しながら感覚を洗練させていくのは、人間に与えられた可能性と
能力といえるだろう。
「育てること」「作ること」「食べること」これらは極めて個人的な課題だ。
一人の人間が変わり、周囲が少しだけ健全な方向に歩んだとして、
世の中には少しの影響もないかもしれない。
それを自覚するとき、私たちは無力感に陥る。
しかしそこにトリックがある。
膨大な情報を提供する今のテレビ分化(文化ではない)は個の楽しみ
を提供してくれるが、内側には何をしても無駄という虚無がひそんでい
る。
野口晴哉は「不快の上になりたつ快は、不快の支えなしには存続で
きない」と書いている。
この文章を読んだとき、私のうちで歯車がカチッとはまって何かが動き
だした。
社会への不満や世に溢れる豊かさを羨む気持ちが誘導する快が用意
されている。
それを追い求めても決して満たされることはない。
私たちにあるのは自分の人生を精一杯歩むことであり、他を羨んだり、
卑下したりする必要などない。
見知らぬ街で飢えに苦しむ子供たちの映像を見るとき、私たちの心は
痛む。
しかしそれをなんとかしたい、やれるだけのことはしたいと思うのは、
内なる不満の代償であり、私たちの欲なのだ。
あの子たちと共に生きることはできない。
知らない誰かをケアしようとする動きは、常に世の全てを産業化しようと
する働きにとりこまれ、それによって新たな貧困と悲惨を産む。
全世界に責任を持つことなど誰にもできない幻想であり、無力から目を
そらすことによって虚無を受け入れることなのだ。
映像の世界と、自分という存在が出合ってしまったことを区別するこ
とでしか、自分を自分の手にとりかえすことはできない。
イリイチは「それが世界を救うのに役に立つからではなく、それが美し
いものであるからこそ祝福しうるようなセンスです。それゆえわたしは、
いまをいきいきと生きようと呼びかけます。あらゆる痛みや災いを抱えつ
つ、この瞬間に生かされていることを祝福し、そのことを自覚的、かつ
儀礼的に、また率直に楽しもうと呼びかけるのです。わたしは、そのよ
うに生きることが、絶望や非常に邪悪な種類の(責任という)宗教心に
対する解毒剤になると思われるのです。」と語っている。
整体の野口晴哉は「人が生きるのに意味はない。生きることだけが
意味なのだ」と書いている。
生きているということ自体が奇跡なのだから、日々感謝しながら理想
を実現する努力をするしかない。
生きていれば必ず希望は残る。
娘が買ってきた歌手のCoccoのDVDを見ていたら、最後の方でこども
のことを語る場面があった。
彼女の独特の語り口を文章にすることは不可能なので、記憶だけで
内容をお伝えする。
「若いときに宮崎駿の「もののけ姫」を見ていたら、めちゃくちゃ腹が
たった。最後の場面で(神が死に自然が破壊され)少しの花とひとつ
のコダマ(自然の精)が残った。こんな半端なことしてるから、世の中は
変わらないんだ。全部殺してこれじゃだめなんだと伝えなくちゃだめ
なんだと。
けれどずっと後にこどもといっしょに見たときは、心の中で祈っていた。
お願いだから花を残して、少しでもいいからコダマを残しておいてと。
こどもに美しいものを見せたい。夕焼けを見る楽しみや夕ご飯の匂い
をかぐ楽しみを残したい。」
次の世代でも世の中は少しもよくなっていないかもしれない。
むしろ悪くなっているだろう。
人間だけに特権的に許された、確実な安定と未来はない。
それでも私たちは期待をし希望を持つ。
美しいものを見て育ったものは、次の世代に美しいものを見せようとす
るだろう。
可愛がって育てられたこどもは、大人になってこどもを可愛がるだろう。
冷たい社会のシステムのなかで、辛うじて人のぬくもりを感じることが
あるのも、荒れた教育のなかで人になにかを伝えようとするのも、あ
たりまえのことではない希望に支えられた切実な行動だ。
他人に認められようとしたり、よく思われるために何かするのは欲に違
いないが、その時をその人といっしょに生きることには意味がある。
希望はギリシャ神話では人間に残された最後のものなのだそうだ。
パンドラが開けた箱で他の災いは全て世に飛散したが、唯一希望だ
けが箱の中に残った。
人に許された唯一の要求が希望だ。
次の世代を思い、明日の自分を信じる。
それ以外は全部余分な欲なのだ。
この世に生まれたのだからこの世のすべてを味わいつくしたいという
欲、今のままでいいからずっとこのままでいたいという欲、どちらの道
も自分を見失う未来しかない。
何も感じずに無為に生きることはできないが、日々自分らしく生きるこ
とはできる。
私たちにはまだ、生きて、内なる自分を実現させる余地が残されてい
るし、いくつかの希望を胸に宿しつづけることができる。
これは当然のことではなく、幸せなことに違いない。

晴屋の青い扉 その56  正しい消費者の作られ方

晴屋の青い扉 その56  正しい消費者の作られ方
世の中は生産者と消費者に区分けされている。
使うことによって、作るものを育て、それによって自分も成長していく
相互の関係があれば、その区分は必ずしも必要ではないが、遥かに
離れたところにいる顔の見えない他人の作ったもの、見ず知らずの
人が使うもの、という関係では生産者と消費者は明らかに分断されて
いる。
たくさん作っていっぱい売れれば、生産者として能率がよく、大きな利
益をえられるかもしれない。
一度に大量に作った製品は均質で、一般的で、外れがないかもしれ
ないし、価格が安いので消費者に便利かもしれない。
人間には「欲」があって、これがもう少しなんとかなればいいのだけれ
どと思い、やってみたくなる。
しかし、それが得られたときには、前のものは失われるということを忘
れてしまう。
かつてあった、地域に根ざした個性的な暮らし方は失われてしまった。
すべてのことは、欲求に訴えてわたしたちの心に浸透し、誰もが生まれ
ながら持っていた純真さを失って、大人の消費者になっていく。
純真無垢に生まれてきた赤ちゃんは、一人では生きられないので親
の注意を集め泣いて要求を伝えようとする。
親が思うとおりに要求を満たしてくれると安らかに寝る。
しかし満たされなければいつまでも泣き、満たされる快感をえられない
まま、とにかく泣いて注意を集めようとする。
外界の新しいものへの興味と創造への一歩がさまたげられ、他者への
信頼も育たず、自分の欲求を果たすためだけのものとして世界を認識
するようになる。
そのまま大人になれば、欲求に過敏に反応して、余分に大きな声と
過大な要求をするようになるが、決して満足をすることができず、つぎ
つぎに欲求を続ける、万年欲求不満の状態になる。
何にでも文句をつけ、自己の立場と権利を主張し、無視されれば過敏
に反応するプライドの高い人は多くいる。
その多くは幼少期の心の傷に由来している。
意識でなく無意識にできた傷は、意識で変えようとしても直すことは
できない。
自分の要求でなく、与えられた欲求を満たしていく、優良な社会の歯
車であり、強く、正しい消費者が生まれる。
イバン・イリイチは当初、学校教育が従順な消費者を作ると言った。
学校のいくつかの機能を説明している。
まず知識を学べるのは学校だけでここで教えることは全て正しいと教
える。
新しい知識を得るためには学校に通い続けなければならないと納得
させる。
さらに上の教育があると示した上で、そこに到達できるのは限られた小
数だと理解させる。
そこにいけないのは、個人としての努力や素質が足りないからだと分
からせ、ごく一部のエリートと圧倒的多数の自分でものごとを判断しない
消費者がうまれる。
創意工夫する楽しさでなく、従順に言われたことを記憶する、テレビに
依存する消費者たちだ。
イリイチはさらに病院が病人を作ると言った。
医師が死を認定する権利を持った時から、生を司るのは医師の仕事
になり、病院に通わなければ健康でいられないと感じる人が現れた。

病気や怪我には必然性があるけれど、それを無視して病状だけを回復
させようとすれば、人間全体としてバランスが失われる。
苦しむこと、じっと耐えること、心と身体をひたすらに休める時期は、
人間に必要不可欠な大事な時間と経過だ。
それを忘れ、生きる感覚を他人まかせにする圧倒的多数の医療の消
費者が生まれる。
イリイチはこれらを指摘すれば世のシステムは変わっていくと期待した
が、残念ながらそれははずれた。
イリイチが提唱した必ずしも学校に通わないでも真実は学べるとした
「脱学校」は世界を一つの教室としてとらえる大きな動きにのみこまれ、
自分で自分の生き方、苦しみ方を選択しようとよびかけた「セルフケ
ア」は病院の中での自助努力にすりかえられた。
イリイチが考えたのよりずっと早く、深くテレビの影響はわたしたちに
浸透した。
電源が入りっぱなしのテレビのブラウン管からは、刺激的で扇情的な
画像が垂れ流されている。
「場違いな具体性。挑発的な官能性。視点の強制。」などという言葉
でイリイチは映像の世界を表現している。
子守代わりのつけっ放しのテレビ映像に浸り、外で遊ぶよりテレビゲ
ームに楽しみを見いだす子どもたちは、そこからくるものを当然のもの
として疑いをもたない。
「原子化」と「他人志向」はますます強まり、個を主張するけれど、流行
や格好の良さを追い、他人から「可愛いい」と思われることが良いことの
基準となる。
どこかで見かけたようなファッションに身を包んだ若者が街にあふれ、
次々にダイエット法や健康法が宣伝され関連商品が売れていく。
こうして思い上がり、勘違いした正しい消費者がますます増えていく。
なぜ正しいかというと、こうした消費者は、自分でものを考えないので、
与えられた欲求の中での選択をするため、システムに取り入れやすく、
そのシステムを疑った新しい動きも作ろうとはしないからだ。
システムを動かす人たちにとって、とても都合のいい存在であり、前回
書いた見せかけの「民主主義」を疑わずその中で安穏と生きる人たちだ。
正しい教育と、正しい医療と、正しいテレビの情報が正しい消費者を
作る。
まったく見事というしかない。
それでもへそ曲がりは世の中にいる。
晴屋は世の片隅にいて「マイペース」と言われ、お客さんたちもしっか
り自分の好みをもっている人が多い。
けれど、大なり、小なりわたしたちのなかにも消費者はいる。
わたしたちに選択の余地はどれほどあるのだろうか。

晴屋の青い扉 その55 民主主義の旅

よく不思議に思うのは、周囲には原発推進派など一人もいないし、
今の世の中のシステムをいいと思っている人など見たこともないし、
根っからの悪人だなと思う人もまず見かけないのに、世の中はちっとも
いい方向に向かっていないことだ。
みんなが願い、意思を表明すれば社会は変わるというのが民主主義
なのだから、もうとっくに理想的な世界がやってきてもよさそうなもの
なのに、何故かそうならない。
むしろ悪くなる一方で、民主主義なんていうものは形だけで大衆主
義とか、衆愚主義とかそんな言葉の方が現実にあっているような気
さえする。
私が記憶している「民主主義」は、革命期のフランスで市民が自由と
自治を要求して命をかけて獲得した、人間の理想、自由と平等を追
求したものだったはずだ。
それが何故か形ばかりになり、見せかけのコンビニで商品を選択する
程度の自由と、責任を負わないわがままばかりが横行するようになっ
てしまっている。
携帯電話もまともに操作できない古い人間の私だが、最近は電子
辞書などというものを手に入れ、運転の合間とか、ふと気がついた時
に言葉を調べるのがクセになっている。
この辞書には広辞苑だけでなくブリタニカの百科事典も入っている。
「民主主義」を調べてみた。
「・・・語源はデモス(人民)とクラティア(権力)とを結びつけたギリシャ語
のデモクラティアで人民が権力を握り、みずからそれを行使する政治
を意味した。したがってそれは君主政治や貴族政治と並び支配形態
の一つである「多数者の支配」をさす。民主主義は、古代においては
愚民政治ないし暴民政治を意味するものとして、しばしば嫌悪され、
望ましい政治形態として受け入れられるようにいたったのは近代にお
いてである。・・・・」
古代のギリシャでは少数の市民を多数の奴隷が支えていた。
そんな社会を私たちは理想とすることはできない。
素晴らしい文明があったとしも、そこにはユートピアはなかった。
「・・・民主主義が真に確固とした市民権をえるのは第一次世界大戦後
のことである。この大戦において連合国側は「民主主義の安全な世界
をつくる」ことを戦争目的として揚げ、戦後はこの宣言に応じて民主主義
の大波が全世界をおおうことになった。しかし民主主義はソビエト型
民主主義と北欧型福祉国家の挑戦という新たな問題に直面した。元来
民主主義は自由、平等の理念に立つものであるが、近代民主主義は
リベラル・デモクラシーとして発展し、平等については形式的平等の実
現にとどまっていた。ソビエト型民主主義と福祉国家理念は、特にこ
の点を突いたのである。・・・」
崇高な理想と、多くの血と努力とによって実現した民主主義だが、現
実には多くの矛盾を抱えていた。
ブリタニカにはさらに「マス・デモクラシー」についての解説があった。
これは私には少なからず衝撃的だった。
「20世紀の民主主義の拡大は普通選挙制の実施による大衆の議会
政治への大量参加として始った。しかしその拡大は民主主義の形骸
化をもたらした。その理由としては市民社会から大衆社会への転換
という問題が考えられる。資本主義の発展は、社会的分業と都市化を
発展させ、社会生活を複雑、多様なものにした。この結果社会生活の
中で諸個人は孤立すると同時に相互依存を強めるようになった。こうし
てリースマンのいう原子化した膨大な量の「孤独な群集」が登場すると
ともに「他人指向型」の人格が出現するにいたった。また社会生活の
複雑、多様化は、一方で無力感を醸成すると同時に、他方でそれまで
自立的な個人の生活の中で解消されていた非合理的感情を社会に
向かって奔流させることになった。こうした大衆社会状況は、政治の
あり方を変え、民主主義の制度を変容させた。」
民主主義が人間の自由と平等を保証するためのものでなく、画一化
され、分断され、極めて限定された中での選択だけが許されていると
いう現状は、すでにアカデミックな世界や実際の政治の中では常識
として定着していたのか。
多くの人が標榜する民主主義はすでにただの幻想か。
それとも現状の維持を望む人たちに口実を与える方便なのか。
私たちは国民や社会人として他に何か共通の理念を持ちえるのか。
自分の今までの不勉強を恥じるとともに、目の前の突然の巨大な渦
に、一人の人間としては見渡すことさえ不可能な混沌とした渦に直面
したような気がして、めまいを感じた。
私は確かに今まで、この世の中の状況はおかしいと思い、違う生き方
があるはずだと信じ、それを実現しようとこの八百屋を続けてきた。
かなり徹底した個人主義者に生まれついた私は、自分にふりかかる
問題を社会のせいでなく、個人の課題として解決しようと努めた。
整体で自らの身体と向き合い、なるべく医療には頼らず、テレビの画面
を信用せずに自分が直接感じたことと区別した。
世の中でいいといわれていること、権威で保証されていることも鵜呑み
にせず、自分で検証し組み立てし直すまでは決して納得しなかった。
反社会というより、非社会的に生きてきたと思っていたのに、結局社会
全体がかかえる問題と同じ根にぶつかってしまった。
けれど、原発も含めてあまりにも遠大な人間全てにのしかかるテーマ
と向き合っていると自覚して、非力を自覚せざるをえない。
険しい道を登りきったら、突然に見晴らしのよい場所にでたけれど、
周りは断崖と絶壁で、次の一歩の足の置き場がみつからない。
少なくとも私たちの自由を保障してくれる民主主義などというものはす
でになく、自由は私たち自身で獲得していかなければ得られないこ
とは確かだ。
ゴルフやリゾートや高級車など優越的なものを使える、世に保証され
差別化された自由でなく、それほど多くのものでなくとも、静かに心を
みたすひそやかな喜びと自由をえるにはどうしたらいいか。
道のりは、はるか遠い。

生活に溶け込む音楽とオーディオ

音楽とは不思議なもので、上手く楽器を操って音を出せれば音楽
を楽しめるかという、かならずしもそういうものではないらしく、それはも
う必死で演奏に取り組んでいます。
よっぽどの天才か、年を経て経験を積み、ゆとりと緊張感を両立でき
るようになるまでは、どちらかといえば、苦しみの方が大きいのでは
ないでしょうか。
もちろんその苦しさには意味があって、それがなければ生きている
意味がないともいえるでしょう。
けれど、他に自分の課題をかかえている人たちにとっては、音楽は
かけがえのない喜びの源であり、この上もない楽しみの時でもあり
ます。
他人が必死になっているものを聴いて楽しむというのも考えてみ
れば変な話なのですが、そこに生きるということの綾があるように
も思います。
そんな私たちにとっては、オーディオ装置、いわゆるステレオは重
要なアイテムであり、演奏家にとっての楽器と同じに、音楽と一体に
なって至福を味わうための欠かせないものです。
ただいい音で音楽に入り込みやすいというだけにとどまらず、音楽
を受け取る姿勢や自分の内面と向かい合う感性の扉を開き、聴く
人の精神を形に表現したものともいえます。
だからとても大事なものだと私は思っているのです。
粗末な音を聴いてると粗末な人になるとまでは思いませんし、高
価な装置を持っているから立派な人だとも思いませんが、できる範
囲で音の質を高めようとする努力が自分の感性を磨き、新しい世
界を見る大事な鍵になっていきます。
いわゆるオーディオマニアたちの中には、機関車や雷の音をどれ
だけ生に近く再生できるかに血道をあげている人もいます。
道具としてオーディオ装置を考えれば、それもひとつの立場でしょ
う。
しかしそれでは、技術ばかり追求した音楽と同じで、機械的な完全
さや正確さが重んじられ、人間の感覚の精妙さが見落とされてい
きます。
私たちは演奏者の出す音の微妙なニュアンスに反応して、その人
の感じていることや作曲者の思いいれを感じます。
出ている音階が同じでも、演奏する人によって、感じるものがまった
くちがいます。
それと同じに、ステレオの音の違いも、私たちは大きく感じます。
ただ一般に音のいいステレオというのは、大きくて威圧的な音で有
無を言わせないような暴力的な音が多いようです。
オーディオマニアに無理に聴かされる音はそうした傾向が多くあり
ます。
しかし、コンサート会場で聴く音はアコースティクな楽器の音はどん
なに大きくてもうるさくありません。
音に張りがあるのにやわらかく、私たちを包み込みながら風のよ
うに流れていきます。
オーディオ装置で、完璧にそこまでいくのは不可能ですが、大き
な音量を求めなければ、やわらかな表情は再現できます。
場合によっては、演奏会場では感じられないような微妙なニュア
ンスを感じることができます。
私たちが求めているのはそうした、完全な生の音ではないけれ
どかなり肉薄して音を聴く楽しみには十分で、しかも自分の気分
や体調、気候や疲れに合わせ、日常の空間の中で楽しめたり、
癒してくれたり、あるいは鼓舞されたりするような、自分の内部の
ひそやかな部分に届く精妙な音の楽しみです。
それを伝えるために小型の「愉音」と名づけた小型のシステムを
提案し、50セット以上提供してきました。
いまだに「欲しい」と言って下さるかたがいらっしゃいますが、時間
と体力の関係でもう受注することができません。
ただ私も、できることがあるのに、黙っていることができないタイプ
の人間なので、別の形でより進化したものを提出してみようと思
いたちました。
価格は以前の「愉音」が2~3万円だったのにたいして、今度のは
13万円前後になります。
大きさも普通のコンポサイズで、より本格的な音の再生を前提に
しています。
枉駕で開いてる「旬の音楽と料理の会」で使っているものに近いも
のですが、よりパーソナルに楽しめる大きさと音になります。
東久留米の店では日常的に音が出ていますので、興味のある方は
聴いてみてください。
自分が楽しみたいときに好きな音楽を聴く。
これ以上の贅沢な楽しみは他にないでしょう。
演奏者の都合や体調につき合わされず、周囲の人間にも気を使わ
ないで、じっくり音楽に浸ることができます。
その時の気分や気候の変動によっての体調や感受性の変化に合
わせて積極的に音楽を選び、単に楽しむだけでなく、自分の暮ら
し方をプロデュースすることもできます。
店で仕事をしながら音楽を聴くことが多い私ですが、オーディオ暦
も40年を超えそれなりに経験を積んできました。
これなら多くの人に充分な満足を感じてもらえるだろうし、価格も性
能の割にはどうしようもないほどには高価でないオーディオ装置を
ご紹介したいと思います。
その人の個性や必要性に応じて内容は変わりますが、基本のシス
テムはCDプレーヤーとスピーカーとアンプからなっていて、総額は
13万5千円です。
スピーカーのみは中古の製品をオークションで手に入れて、それ
に手を加えてお渡しします。
現行のオーディオ製品は、コストダウンのために粗末な材料を使っ
たものが多いようです。
また以前のように大量には売れないので、量産効果も期待できない
ので、安くてもメーカーの意気込みが感じられるような個性的な製
品もみあたらなくなってしまいました。
それでスピーカーはオンキョーの15年ほど前の製品、D-202Aシリ
ーズから選んでいます。
このスピーカーは相当に優秀です。
音楽に一番大切な中音が充実していて、音に存在感があるのに妙
なうるささがありません。
今売っているスピーカーのほとんどが、低音と高音を強調させて
メリハリをつけ、安っぽく下品な音がするものばかりです。
聴く人の感性を馬鹿にしているのではないかと思ってしまいます。
ゆったりと音に親しんだり、微妙なニュアンスの合間に新しい発見が
あるような、音の世界にこちらが入り込んでいきたくなるようなものが
ほとんど見当たりません。
このD-202Aシリーズは、オンキョーの長年のスピーカー作りの技術
の集大成のような製品です。
小型ですがずっしりと重く素材を惜しまずに使う姿勢がうかがえます。
16cmウーハーの2wayスピーカーですが、ウーハーというよりはフル
レンジ(1個のスピーカーで低音から高音まで全て出す)に近い動作
で、音の自然なつながりを実現しています。
高音には絹を使った質のよいソフトドームのユニットを使い、刺激的
でない爽やかで自然な表情を聴かせてくれます。
また、自然素材であるホヤのセルロースを利用して、音の芯の強さ
と落ち着き、微細な表現力を持たせています。
今これを作ったら10万円ではとても無理でしょう。
それがオークションでなら1万円ほどで入手できます。
ただしエッジは経年変化でだめになって、張替えが必要です。
内部も吸音材の交換や電磁波対策をすることで、音のこもりが減り
より素性のよさを楽しむことができるようになります。
改造費込みで2万円を設定価格にしています。
CDプレーヤーは全体のバランスの中では不釣合いなほど高性能
で、コストの割合も高くなっています。
何より音の入り口がよくなければ、いい音は望めません。
内容的には100万円のCDプレーヤーより優秀で音も上回っている
製品です。
基本の製品はパイオニアの25連装(25枚のCDが入りリモコンで自由に
選べる)のPD-F25Aというものです。
カラオケにも使われているメカなので、耐久性と信頼性は抜群です。
内蔵するDAコンバーターは1ビット式で、素直で伸びやかな音が特
徴です。
このCDプレーヤーの素性のよさに着目し改造したのはFIDELIXという
メーカーの中川さんです。
中川さんはSONYで高級アンプの設計に携わった後、STAXというコ
ンデンサー・スピーカーで世界的に有名なメーカーで、大企業には
できない斬新なアンプを開発しました。
そのDCアンプは超高級品を作るメーカーがリファレンスに使うような
優れたものでした。
そして独立してFIDELIXを作り、手作りの高級アンプを提供していた、
マニアの間では有名な人です。
その中川さんがこのCDプレーヤーの改造をしたのはまずクロックとい
れる部分の交換です。
クロックは人間で言えば心臓にあたります。
これがちゃんと動作していないと、音が不安定で浮ついたものになり
ます。
通常はジッターという雑音成分が多く発生していて、それが音に混
入しているので、一般的にCDの音はうるさく、落ち着いて聞けないも
のが多いのです。
また電源は人間で言えば足回りになりますが、電流供給するダイオー
ドにショットキーバリア型に交換して、パワフルでノイズの少ない音に
貢献しています。
クロックは、回路技術者としては世界でも有数の中川さんが設計し、
製作したものです。
クロック交換を他に依頼すると、これほど優秀でないものを使って、
5~10万円位請求されます。
新バージョンはオペアンプという主要部品のグレードアップで、音質が
さらに細やかになりました。
しっとりと潤いまで感じられるより生の音に近いものです。
この製品では交換済みのものが6万5千円という手の届く価格になって
います。
さらに晴屋で電磁波対策と振動対策を加えることで、音により落ち着
きのある表情が感じられるようになっています。
CDの音にどうしても満足できない人、LPの音に近い自然でふくよか
で奥行きのある音を望む人たちにぜひおすすめしたいCDプレーヤー
です。
私は昔から、アンプが好きでした。
もちろんスピーカーやカートリッジも好きですから、ステレオが好きという
こともあるのですが、アンプには特に愛着を感じます。
それは多分に、私にとってはブラックボックスで、中がよくわからないか
ら、神秘性を感じて惹かれているのかもしれません。
カートリッジは磁石とコイルで出来ていて、どちらかが動くことで発電し
電気信号をアンプに伝えます。
反対にスピーカーは、アンプが増輻した信号で磁石に隣接したコイ
ルを動かしそれに付いているコーンという振動板から音を出します。
数十年変わらない、感覚的にもわかりやすい世界です。
だからアンプは個性を持たずに、入ってきた信号をそのまま大きくす
ればいいのですが、それが意外に難しく、質が変わったり、個性を持っ
たりします。
部品の違いや回路の良し悪し、それだけではない様々な不思議な要
素で音が変わります。
それが機械的でなく、なんとも面白いのです。
ちなみに私は黒いメカニックな雰囲気のものはだめで、つまみが少なく
シンプルで繊細な雰囲気を持ち、音は緻密で切れ味があってしかも
うるさくない上品なものが好みです。
こういう好みは多くの人は、食べ物や異性や文学的な嗜好や生活観と
も共通しているようで非常に興味深いものがあります。
さて今回この組み合わせにおすすめしようと思うのは、2機種あります。
一つはオーディオ用としては入門的な扱いのアンプなのですが、昔
から定評のある少し小型のアンプでDENONのPMA390SEです。
私も初代のPMA390を使っていました。
小ぶりでも素直でしっかりした音調でかなり気にいっていました。
これはそれから数代後のかなり改良を加えた製品です。
音は初代に比べて、よりクッキリと力強いものになっています。
放送局で使っているカートリッジにDENONのDL-103という有名な製
品がありますが、それを思わせる厚みと輝きのある音です。
多くの人に受け入れられるのも分かります。
定価は45150円ですが、晴屋の設定価格は35000円になってい
ます。
もう一機種は、私の自宅や枉駕のホールでも使っているものです。
ONKYOのA-1Eという製品です。
十年以上前の製品で、今は当然作られていません。
ですからオークションで中古の製品を手に入れるしかありません。
保障も付きません。
それで第一候補にはできないでいます。
薄型でつまみが少なく瀟洒な雰囲気、中身ははぐっと詰まっています。
とても大きなメーカーが作ったとは思えないような、量産やコストを度
外視した贅沢なつくりです。
ONKYOの長年の技術を集大成するとともに、通常マニアが自分の
ためだけに組み立てるとき使うような高精度の測定機用の部品などを
使った、手作りの製品です。
オーディオ産業が衰退しかけた時、最後の最後に技術者がやりたいこ
と、やれるだけのことの全てを注ぎこんだ製品のような気がします。
音はリアルなのに穏やか。
うるさい音は全く出ませんが、細やかな表情まで全て感じることができ
ます。
その当時の定価は18万円でしたが今作ったら50万円ではとても無理で
しょう。
そんな製品がオークションでなら、5万円以下で買えます。
私には奇跡的なこととしか思えません。
保障が無いため故障の可能性がゼロではありませんし、ガリボリュー
ムの心配もあります。
しかし私の知っている数人のユーザーで問題は起こっていませんし、
ONKYOはサービスの体制がしっかりしているので、ケアはいくらでも
出来ます。
個人的な音楽の楽しみの強力なアイテムとしてぜひおすすめした
い製品です。
晴屋では内部に電磁波対策をしてよりクリアな音にしてお渡しします。
このシステムにはコストの都合で使えませんが、私のもう一つのアン
プもご紹介します。
前述のCDプレーヤーを製作したFIDELIX の中川さんによるもので、
CERENATEという名の小型のアンプです。
つまみも電源とボリュームの二つしかありません。
価格も定価147000円(晴屋価格14万円)と他と比べれば高価でか
すが、内容は一段と濃く、驚くほどのリアリズムを感じさせます。
他の装置の欠点や録音のあらまでもあばき出します。
音楽を楽しむと言うより、音に向かいあい厳しく見つめるためのアンプ
といえます。
オーディオ派にも、音楽派でも、超マニア向けのアンプです。
こういうものも世の中にはあります。
このシステムにおすすめのケーブルについてもお伝えします。
ケーブルは信号を伝えればいいのですから、音質に違いが出ては
困ります。
しかし実際その差は大きく、アンプを交換したほどの差が出ることもあ
ります。
そのことを世に示したのはオーディオ評論家の江川三郎先生でした。
しかし一度違いが認知されると妙に凝ったものが出回りはじめ、ごたご
たとしてやたらと太くごっつく高価なものがいいような風潮になって
きました。
江川先生はそれにも疑問を持ちすっきりとしたシンプルなものを自
分の工房から発売しています。
金コロイド・ナノ・ケーブルは本当に素晴らしく、これ以上のケーブルは
私は知りません。
音にくすみがなく、ぱっと立ち上がり、余分な響きが付かずに消えて
いきます。
音の純度が桁違いに感じます。
しかしスピーカーケーブル、RCAピンプラグケーブルそれぞれ2万円
前後と高価なためこのシステムにはどうしても収まりません。
それで私が江川工房から線材を仕入れて、自作しました。
仕上がりの美しさは江川工房に負けますが、性能は変わりません。
設定価格はスピーカーケーブル、RCAピンプラグケーブルどちらも1万
円です。
以上が今度おすすめするシステムの全ての構成要素です。
CDプレーヤー65000円、アンプ45000円、スピーカー20000円、SPケ
ーブル10000円、ピンケーブル10000円で総計150000円ですが、セッテ
ィング込みで135000円でお渡しします。
アンプがDENNONの場合は1万円安くなります。
これはあくまで標準で今手元にあるシステムを生かしながらの改良もで
きます。
ご質問は晴屋、松橋までお寄せください。
このシステムは今、晴屋の店頭で鳴っていますので興味のある方は
買い物のついでに耳をそばだててみてご視聴下さい。

晴屋の青い扉 その19 音楽とオーディオの睦言

オーディオのことを書くのは、もう止めようと思っていた。
「本業がおろそかにならないように!!」とハンマーで釘を刺されてい
たし、正直言ってほとんど利益にはならない。
最初から、そんなに売れるものでも、儲かるものでもないのは分かっ
ていたが、生活に馴染む道具としてのオーディオの姿を形にして、
提出してみたかった。
だから、技術的レベルも高く、様々なノウハウを盛り込んだ製品なの
に、その事にはほとんど触れずに、ただ置いて、聴いて判断してもら
っていた。
「ステレオの音の違いが分からない」と言っていた人が、「今まで、
つまらないと思っていたCDを聴いて感動した」と言ってくれた。
男の妄想や理屈で作り上げた普通のオーディオ装置の良し悪しには
興味がもてないけれど、音の違いが分からないのではなく、本当に
いい音に出会えば感じることも多いのだ。
私の家にいた猫のことを思い出す。
その猫は野性的で面白い猫だったけれど、ただ一つ気に入らない
のは、ギターなどの楽器の音にとても反応してすぐ逃げ出すのに、
ステレオでいくら大きな音を出しても、知らん顔なのだ。
そんなもの本物じゃありませんよ、と言われているようで悔しかった。
女性にはその感覚に近いものがあると思う。
けれど、今回紹介しているソニーSRS-Z1しゃちょーバージョンは、
かなり生に肉薄し、生活に溶け込む道具としてもスグレモノと思う。
そして、店での試聴を繰り返すうち、男性達も次第に興味を持ち
始めた。
そうすると、どうしても理論的な説明も必要になってくる。
何度も話すのは大変だし、時間的にも限界があるので、今回一気に
書いてしまおうと思う。
オーディオと音楽の関係に興味のある人だけ、お読み下さい。
まず、オーディオ装置は音を「再生」するためにあるものだ。
シンセサイザー等の電子音を除いて、マイクを使って音を拾う。
広いコンサートホールでも、2本のメインマイクの間隔は1~2m位が
普通だ。
決してホール全体の音を録音しているわけではない。
それも一つのマイクの口径は、1~2cm。
その小さな空間を通過する音という振動を、電気信号に変えて増幅
し、記録する。
その記録されたものを、私達は「再生」して愉しむ。
CDやレコード盤に記録されたものを、再び電気信号に変えてアンプ
で増幅し、スピーカーから音を出す。
まず一番問題なのは、スピーカーの口径だ。
スピーカが左右各1個の場合は、シングルコーンと言われ、16cmの
口径位が普通だ。
ちょうどマイクを大きくして反対に音を出すような構造になっている。
それでも、マイクに比べればかなり大きい。
自然な音が持ち味だが、空間の細かな再生には無理があるし、低
音も高音もどうしても不足しがちになる。
それで、通常は2個の2way、3個の3wayのスピーカーシステムに
なる。
低音用は大きいものは38cm口径位になる。
多ければ多いほど、大きければ大きいほど高級と思われている。
しかし、本当にそうか?
スピーカー大きくなればなるほどに、分割振動というコーン紙(振動
板)の暴れた動きが出てくる。
それを止めるためには、コーン紙を固く強くしてやればいい。
けれど、そうすると今度は重たくなって、細やかな動きが出来ない。
コンサートホールのPAのような大音量用のスピーカーは、小さな音
は苦手で、歪んで大げさなものになってしまう。
そうした音に慣れ、それがいい音だと思っている人もいるが、それは
好みの問題だ。
本当にいい音ではないことは確かだ。
女性で言えば、アクセサリーを多用し、香水の匂いもきつく、やたら
とジェスチャーが多いタイプだ。
どうぞご自由にという感じだ。
私の好みというより、本来の姿は、内面の美しさを素顔や色付けの
無い表現ですることだろう。
小さなマイクで拾った音は、小さなスピーカーで再生する。
それが原理的に言って正しい再生の仕方だ。
大きな振動板のスピーカーで出した音は、低音の量感はあっても、
無理やこじ付けがある。
その鈍さを補うために、威圧的な低音や、高音の派手な表情付け
をしているとも言える。
私がお奨めしているSRS-Z1は、ただ小さいというだけではない。
コーン紙には、バイオセルロースという高密度の素材を使い、共振
を無くし素直な音を実現している。
磁石もエネルギーの大きいサマリウムを使い、Σ型磁気回路で低歪
で広い周波数での再生を可能にしている。
大きな筆で、細かな部分を書くことは出来ない。
小さなスピーカーは、細やかで切れのある表現が得意だ。
しかし、低音だけはどうしても足りなくなる。
それを補うために口径を大きくすれば、他と同じことになってしまうし、
別のスピーカーで低音を補ってもやはり余分な音が加わって、うまく
いかない場合が多い。
その問題をクリアするのが、二ア・フィールド・リスニングという方法だ。
評論家の江川三郎さんが提唱したこのテクニックは、近接したスピ
ーカーに頭を突っ込むように、非常に近い位置で聴くものだ。
そうすると、そこに忽然と違う空間が現れるのを感じる。
単に音が出ているというだけでなく、演奏の空間が再現され、演奏
家のたたずまいや気持ちまで感じられるようになる。
小さなスピーカーでも、低音が出ていないわけではなく、その音量
が小さいだけなので、、近くで聴くことによって、高音から低音まで
均一に感じられるようになる。
更に、部屋やスピーカーの周囲からの余分な音の反射からも逃れ
て、音の本質にぐっと迫っていく。
けれど、ヘッドホンで聴くような、頭の中に音像が定位するような、
不自然さが全く無い。
その目の前に、ホロスコープで視るようなリアルな空間が再現され
る。
SRS-Z1の優れている部分として、合理的なアンプもあげることがで
きる。
私達が使う音量では、通常アンプの出力はせいぜい1W位だ。
それを50Wとか100Wとかの出力を持つアンプでは、スピーカーの
振動板の大きさと同じで、余分なノイズが増え、微小な音が犠牲に
なる。
Z1は、5Wというほどほどの出力を余裕を持った回路構成と良質の
部品を使って設計されている。
更にアンプの上部に鉄板を仕込んであり、CDプレーヤーの振動
や電磁波の影響を和らげる工夫もされている。
もう一つ、ケーブルについても書か無くてはならない。
SRS-Z1に使われているケーブルは、汎用のもので特に良質という
ものではない。
しかし、これは音が悪い。
いくら信号をきれいに増幅できてもそれを伝えるケーブルが良くなか
ったら、元も子も無い。
ケーブルはある意味、アンプ以上に音が違う。
汎用のものを江川工房の金コロイドのものに変えると、高音のうるさ
さが取れ、すっきりと伸びやかな音になる。
こもった見通しの悪さが無くなり、大きな音がうるさくないだけでなく、
小さな音がより息づいて聴こえる。
見かけの便利さや大きさなど、表面的な分かりやすさが大事にされ
る時代だけれど、本当に生活に馴染むものは、さり気なくて、しかも
飽きずにずっと長く使える。
お金と手間をかけた高級オーディオの世界も趣味として否定する気
はないけれど、特別なものでなく、生活の傍らにいつもある道具とし
てのオーディオが疎かでは、本当に音楽を愉しむことは出来ないし、
芸術も廃れていってしまうだろう。
現代に生きる私達に必要な、合理的で、身の丈の大きさの道具とし
て、SRS-Z1はお勧めできる。
(雑誌にも紹介され50セット以上お届けした愉音シリーズですが、
SRS-Z1が廃盤になり、現在は注文をお受けしていません。発展型
としてシャチョーのシステムとして、普通のコンポサイズのものを扱っ
ています。)