「しゃちょーのぶろぐ」カテゴリーアーカイブ

アバドと静寂の音  番外その2「宇宙につながる身体」 ワーグナー管弦楽曲集

 

アバドと静寂の音 
番外その2「宇宙につながる身体」
ワーグナー管弦楽曲集
  ベルリン・フィルハーモニー 2002年
ひそやかに音が鳴りはじめると、空気
が震え、何かが目覚めます。
何気なく今までここにあった空間が凍
りつき、その中身をあらわにしながら
遥か彼方からの力にひかれ、ゆっくり
と背後に吸い寄せられます。
その動きに後頭部や背中があやつり
人形のように引きこまれていきます。
遠いブラックホールに吸いこまれるよう
に、自由は奪われ、麻痺した身体と心
は、広大な空間に鳴りひびく音の波に
ゆだねるしかありません。
身じろぎもできず、虚無であるはずの
空間と一体になって星々の中をあてど
もなく進みます。
ワーグナーの楽劇は神々の世界の物
語ですが、人間以上に人間臭い葛藤
とドラマがあります。
宿命とエゴの狭間で、血と、汗と、涙が
流されます。
けれどアバドの演奏からは、肉体的な
生臭さが感じられません。
宇宙に永劫に続く物語のひとこまとし
て、抽出され結晶した精神のエッセン
スです。
ベルリン・フィルの前任者だったカラヤ
ン、その前任でアバドの憧れの人であ
ったフルトヴェングラーのワーグナーも
素晴らしいものでした。
カラヤンはこの世の物とは思えない、
美しく艶やかな世界を繰り広げます。
滑らかに磨かれ、ライトアップされた
地底の王宮です。
限りなく妖しい世界です。
フルトヴェングラーはドイツの暗い森に
深く入り込み、ファンタジーの世界に
迷い込んだようです。
深い思索が想像の羽根をえて、常に
流転しながら高みを目指します。
この二人の後を継いだアバドは、偉大
な前任者たちの影響を避けることはで
きません。
周囲からも比べられたでしょうし、アバド
も意識したことでしょう。
この演奏は任期の後期のものです。
カラヤンの磨き抜かれた妖艶と、フルト
ヴェングラーの変幻自在のファンタジ
ーは、アバド流に捉えなおされ静謐な
光による精神のドラマになっています。
大変な読書家であったアバドの磨き
ぬかれた知性と、鍛えて研ぎ澄まされ
た感性は世界の扉を拓くための鍵で
す。
宇宙の彼方の星がどうなっていようと、
私たちのくらしは変わりません。
超新星が爆発し周囲が破壊と創造の
渦に巻き込まれていても、私たちには
あまたの星のひとつが、ほんの少し光
をましたにすぎません。
たとえ宇宙の片隅での、宇宙の永い
時間の中ではほんの一瞬にしかすぎ
なくても、私たちはそんなことに関係な
く生きていけます。
しかしそれでも私たちは宇宙の子であ
り、互いの存在なしにこの世はありま
せん。
ミクロの宇宙である私たちの細胞ひと
つひとつ、それが繋がってできた銀河
のような生命、数限りない生命を宿す
地球、太陽系、天の川銀河、そしてマ
クロのさらに広大な宇宙。
それらをつらぬく一筋の光がこの演奏
です。
宇宙は神秘でありながら身近であり、
静けさの中にもダイナミックな宇宙の
動きが息づいています。
アバドは持てる力をすべて開放してこ
の高みにいたりました。
ワーグナー音楽は、王族に愛され、ナ
チスに利用されました。
権威と結びやすいナルシズムと男の
妄想をはらんでいます。
けれどアバドはすぐれた知性で、権威
的な要素をそぎ落とし、永遠を求める
美への要求だけを抽出しました。
アバドにしかできない世界です。
「タンホイザー序曲」にはじまり、「パル
ジファル」からの組曲、「トリスタンとイゾ
ルデ」より前奏曲と愛の死が続きます。
静謐な叙情が胸に迫ります。
国内盤ではこの後に「ヴァルキューレ
の騎行」という大変に威勢のよい音楽
がボーナストラックとして入っています。
残念ながらこれは蛇足で、興ざめとな
ってしまいます。
輸入盤を手に入れるか、愛の死が
終わったらすぐに再生をとめることを
おすすめします。

呼吸器と眼の疲れへの対処

呼吸器と眼の疲れへの対処
乾燥して埃や花粉が多く、呼吸器に
負担がかかっています。
器官には繊毛がたくさんあって、埃
や雑菌が肺に入らないよう守ってい
ます。
湿気があれば繊毛はうまく働いて、
外に排出しますが、乾くと出せない
ので咳をして出すしかなくなります。
どうしても呼吸器に負担がかかり、
眼や全身の疲れに直結します。
休むことなく働き続ける眼に、蛍光
灯やLED照明や野外の紫外線が
さらに追い討ちをかけて疲れをま
します。
眼が疲れると迷走神経も緊張状態
となります。
迷走神経は後頭部から首を通って
肺などの呼吸器とつながっていま
す。
わざわざな長い経路を迷走する
ため、迷走神経と名づけれらてい
ます。
本来は顔の筋肉を司る神経でした
が、海から陸にあがる進化の過程
で肺などの筋肉が必要になり、下
まで持ってきたために迷走してい
ます。
そのため少し無理があって疲れや
緊張がたまりやすいのです。
眼の疲れが呼吸器の疲れを呼び
起こします。
人間は食べなくても一週間以上
生きられます、
水は3日間くらいは飲まなくてもも
ちます。
けれど呼吸は3分ほどできなけれ
ば死にいたります。
呼吸器が疲れるとすぐに体力が
落ちてしまい、動けなくなります。
また春や秋の季節の変化の時期
には呼吸器にも余計に負担がか
かります。
春の欝や五月病、秋のメランコリー
な気分はそうした表れです。
気持も暗くなり内に閉じこもります。
またその反動として妙なハイテン
ションになったりもします。
躁と欝が交互にやってきて自分を
見失います。
呼吸器が疲れると酸素が不足する
ために寝ても疲れが抜けません。
また昼と夜が逆転して、昼はぐっ
たりしているのに、夜になると元気
になって眠れなくなり、ますます疲
れが蓄積します。
そしてあり得ないものにしか興味
がもてなくなり、妄想やゲームの
世界にひたります。
こうして私たちは個の世界に閉じこ
もり、生命の力を衰えさせています。
また、眼と肝臓の働きにも密接な
関係があり、肝臓にも負担をかけ
ます。
肝臓は身体の中の毒や老廃物を
排出する働きがあります。
肝臓が疲れると毒がたまって身体
の中が汚れてしまいます。
心と身体がいっしょになって動い
ている私たちは、感情の中の毒素
も肝臓で処理しています。
それが滞ると、イライラして怒りっぽ
くなり、簡単に切れやすくなります。
眼の疲れは現代の病的な生活感
と極めて密接な関係があります。
みんなそうなのだから、自分もいっ
しょでもいいという考え方もありま
すが、それではあまりに世の流れ
に身をまかせ、自分を失います。
眼の疲れに対処するには、自分
でケアするしかありません。
目薬や冷やすことはとりあえずの
痛みや疲労感を感じなくしますが、
それはごまかしで、疲労は回復さ
せてくれません。
まずはできるだけ画面から遠ざか
り、見る機会を減らします。
また針仕事や読書、細かな手仕事
も明るい場所で時間を限ってやり
ます。
疲れは冷やすのでなく、温めて働
きを高めて、休め、ケアします。
眼の温湿布はだれにでもできて
効果は確実にえられます。
こめかみには眼の神経が通って
いて、眼の疲れを表現しています。
偏頭痛も多くは眼の疲れです。
眼だけでなく、こめかみもいっしょ
に温めます。
洗面器等に熱い湯を用意し、タオ
ルを何度か温めなおしながら、20
分ほど楽な姿勢で眼を温めます。
この時だれかに補助してもらって、
タオルをかえてもらうと効果はより
増します。
一日の終わりにこれをすることで、
熟睡でき、日々の疲れに対処で
きます。
もう少しかんたんな方法としては、
耳たぶの外側の固くなっている処
をぎゅっとつかんで、外に強く引っ
張るという方法もあります。
意外なほど痛いものですが、効果
はしっかりあります。

分けありの食べ物たち その8 小麦のちょっと微妙な話 その2

分けありの食べ物たち その8
小麦のちょっと微妙な話 その2

以前にも小麦のことを書きました。
何人かの方は、小麦を食べるのを減
らし、それなりに体調も良いようです。
免疫の変化なので、人によって違う
のですが、疲れが抜けやすくなり、頭
のボーっとした感じがなくなるのはみ
なさん共通の感覚のようです。
ただずっと気になっていたことがあり
ました。
1960年代の小麦の品種改良以前の
小麦ではいったいどうなのだろうとい
うことです。
今回いろいろと調べてみて、まず興
味深かったのが、アメリカで行われた
品種改良が実は日本の品種によるも
のだということでした。
農林10号という、背が低く倒れにくい
小麦が日本で作られましたが、湿気
に弱かったため国内では定着しませ
んでした。
それがアメリカに渡って、あちらの品
種とかけあわせ、背が低く倒れにくく、
化学肥料をまいて量産が可能な小
麦ができたということでした。
それは「緑の革命」と称賛され、60年
代のアジアの食糧危機が一気に解
消されました。
しかし良いことばかりではなく、小麦
アレルギーやグルテン不耐症などが
増えていきました。
グルテンさえ摂らなければ、防げる
のかというどうもそう単純なことでは
ないようです。
農薬や化学肥料、品種やたんぱく質
以外の主成分であるでんぷんの質
などともかかわりがあるようです。
まだまだ科学的にも解明されていま
せん。
グルテンは、グリアジンとグルテニン
というふたつのたんぱく質が結合して
できます。
長く伸びるグリアジンと弾力のあるグ
ルテニンがいっしょになって、パンや
生麩のような弾力と粘りがうまれます。
その性質が腸内で悪さをして、腸壁
を傷つけ、免疫力が落ちるのが、グ
ルテン不耐症です。
このふたつのたんぱく質が両方とも
あるのは小麦粉だけなので、なるべ
く小麦を食べずグルテンを摂取しな
ければ良くなるというわけです。
しかし問題が起きにくいと言われて
いる古代小麦にも量は少なくても含
まれています。
そして今回の主役の農林61号です。
農林61号は1930年代に作られた
品種です。
当然、危険で強い薬剤や放射能を
使った無理な品種改良はされていま
せん。
以来、麺に最適な品種として重用さ
れてきました。
この小麦粉だと問題が起きない人が
多いというのです。
けれど中力粉である農林61号は、む
しろグルテンの量は薄力粉に比べ
少し多いのです。
グルテンの量だけでは決まらないの
です。
ネットの情報では分からず、小麦の
プロである人たちにも聞いてみまし
た。
けれど明確な答えはありません。
むしろ、でんぷんの性質によるので
はないかという推測でした。
農林61号で作ったうどんは、のど越し
はあまりよくありません。
少しぼそつく感じです。
ツルっとしたのど越しが好きな人た
ちにはあまり支持されません。
私のようなそば好きの人たちは間違
いなく好きなタイプです。
その少しボソッとした感じがたぶん
腸に悪さをしない要因でしょう。
農林61号はミネラル分が多いため、
色が黒っぽくなっています。
それがなんらかの影響を及ぼして、
グルテンの粘りを少なくしているのだ
ろうと推測しました。
そして晴屋には農林61号を使った
うどんがあります。
「黒うどん」という栃木の小麦を使っ
たものです。
少し高いため、たくさんは売れません
が、独特の風味と美味しさがあって
私を含めてファンがいます。
小麦粉を食べないようにしていたの
で、しばらく遠ざかっていましたが、
実験として食べてみることにしました。
他の小麦はいっさい食べないように
し、一日一回は必ず食べてみました。
小麦を食べると下痢をする傾向にあ
る私ですが、その症状まったく出ず、
むしろ少し便秘ぎみです。
春の体の変動が多い時期で、雨が
降らず乾燥気味なので、水分の不足
のための便秘の可能性の方が大き
いような気もします。
けれど大きな問題はないようで、これ
ならみなさんにおすすめできると感じ
ました。
まだ粉として、てんぷらやお菓子な
どに使っていないのでどれだけ生活
に取り入れられるかわかりませんが、
ひとつの可能性が見えました。
黑うどんは250gで370円で、太めと
細めの2種類があります。

アバドと静寂の音  番外「内と外に広がる世界」 モーツァルトピアノ協奏曲25&20番

アバドと静寂の音 
番外「内と外に広がる世界」
モーツァルトピアノ協奏曲25&20番
  モーツァルト管弦楽団 2013年

見渡す限り続く森に、一陣の風がおこ
り、水面を吹き抜けて波紋をひろげ、
木々の葉が波打ち光がきらめきます。
不思議な森の生き物も木陰からあらわ
れ、無邪気にあそびます。
この世の命も、そうでないものたちも、
ただそこにあるだけなのに、何故美し
いのでしょうか。
胸が広がり、翼が生えて風と一体にな
り、私たちも飛び立ちます。
アルゲリッチがピアノを弾き、アバドが
指揮したモーツァルトピアノ協奏曲第
25番の演奏を聴いていると、こんな情
景が浮かんできます。
この曲は壮麗な宮殿を思わせるような
明快で力強さを感じる演奏が多いの
ですが、この二人は力を抜ききって、
柔らかな世界を浮かびあがらせます。
透明で、濁りが無く、音楽を通して、こ
の世や自然のすべてを見通せるようで
す。
ひとつひとつのフレーズがていねいに、
自然に息づいています。
完璧な技術と音楽への理解、誰にも
負けない経験を持っているふたりです
が、自己を主張せず、生きる苦悩を見
せません。
人間は何かを他人に強く伝えようとす
ると、力が入り、自分が表にでます。
自分を主張することと、新しい美を作り
だし、誰かに伝えられるのとは同じこと
ではありません。
妥協せずに自分を追及しながら、多く
の人たちにとってもどういう意味がある
のかを探求し、共感をえて両立できた
ものが芸術作品となりえます。
個の壁を越え、国を越え、時間を越え
て伝わり、残ります。
そしてこの演奏は人間の感性を超えた
ところまで到達しています。
自然の営みそのものです。
素朴と洗練、情熱と知性、主張と謙虚
などの相いれないものたちが一体と
なってひとつの世界となっています。
2曲目に入っているのはピアノ協奏曲
第20番です。
明るい陽の光に照らされたハ長調の
25番は、広々とした外の世界を感じさ
せます。
ニ短調の20番はまったく反対に、暗い
光が明滅する内なる世界です。
夜の街を、街路や窓の明かりを頼りに
彷徨っているようです。
胸は熱く高鳴りますが、あてどもない
歩みに目的も、解決もありません。
ただ突き動かす何かを見つめるだけ
です。
第2楽章の「ロマンス」は、美しい思い
出です。
胸の奥に静かにひそめているかけが
えのないものたち。
ピアノは柔らかいタッチのなかに自在
に感覚のゆらぎをこめます。
オーケストラは余韻と陰影を与え、過ぎ
去った美しく楽しいものたちが現れて
は、また消えていきます。
水が高いところから、低いところへ流れ
ていくように自然なのに、ひたすら美し
いのです。
捉えようとすると、手から抜け落ちてし
まうものたちが静かに心の底に沈みこ
む時、突然に早急にピアノが打ち鳴ら
され、第3楽章が始まります。
音楽は情熱的に疾走します。
時折、懐かしい思い出もよぎりますが、
それさえも踏み石として、音楽は前へ
前へと進みます。
それだけが生きる意味であるように。
けれど熱狂や陶酔にはほど遠く、幾多
の時をすごした大人の独白です。
痛みだけでなく、懐かしさをともなった
軽やかな愉悦とともに開放にいたりま
す。

この二人の共演は、46年間続きました。
20代で知り合い、共演も多く、チャイコ
フスキー、ショパン、プロコフィエフなど
多くの名盤、名演奏を残してきました。
情熱と探求心を共有し、互いの個性
を知り尽くしています。
時折みせる強い表現に、ある時はそっ
と支えて深みを与え、別の時にはより
強い表情で高みへ跳躍します。
その瞬時の間合いの変化が絶妙で、
スリリングです。
私がモーツァルトに求めるものすべて
が、この2曲に結実しています。
世にある、あらゆる雑多なものたちを
濾しだして、大切なエッセンスだけを
垣間見せてくれる芸術の体験は、本当
に稀です。
世界にあるものすべてに新しく向き合
い、ここにあることの意味を知ります。
胸に暖かなものがあふれます。
アバドを巡っての私の長い道のりは、
この演奏を受け取るためにあったのか
もしれません。

晴屋の青い扉 その88 懸命な言葉

晴屋の青い扉 その88
懸命な言葉

3月は忙しい季節だ。
暖かさに誘われ、何かとそぞろ歩
きたくなり、新しいものを求めて人
が動きだす。
転勤や新入学で、実際に動かな
ければならない人も多くいる。
仕事も年度末で、車の通行も多く
ざわざわとした雰囲気がひたひた
と押し寄せる。
以前よりは商品が見やすくなった
晴屋だが、外へのアピールはま
だまだ不足している。
特に看板は「晴屋」の字しかなく、
いったい何を売っているのか、何
を訴えたいのかが伝わらない。
雰囲気や内容を、一言や絵で表
現できればいちばんいいのだが、
これがなかなか難しい。
ドイツに行ったとき、内容が充実
し、親しみを持てた自然食品チェ
ーン店に、「LPG BioMarktエ
ルぺーゲー・ビオマルクト」という
のがあった。
LPGは、美味しくて、安くて、安全
という言葉の頭文字、ビオマルクト
が、有機栽培の店という意味だ。
こうした短い言葉で内容を表現で
きる言語を羨ましく感じてしまう。
日本では「自然食品店」という言
葉が長い間定着していた。
しかし「有機」「無農薬」「無肥料
自然栽培」などのより明確な基準
を表現している言葉が氾濫する
中では、実態がよく分からない曖
昧な表現で、イメージだけが先行
し内容が伴わないものと混同され
る。
「無添加」や「無農薬」も安全さを
前面にだしたものだが、これも
行き過ぎると都会の消費者がお
金の力で良いものを買い集める
エゴを感じさせる。
晴屋では以前から「美味しい」に
価値を置いてきた。
美味しいは人によって基準が違
い、他の誰も押しのけるものでは
ない。
自分の体に必要だという正直な
感覚そのものだ。
あれが良いはずだとか、良いと
言われているという不純な理屈
ではない。
そして「安心」も、心が安らぐという
意味だ。
どんなものでも、嫌いな人と食べ
ればまずく感じるし、心をこめて
出されたものなら美味しく感じる。
そうした人や自然とのかかわりを
表現している。
ドイツ行って、ちょうど一年。
その間くすぶっていた思いもあっ
て、新しい看板の制作を決意し、
メンバーたちに提案した。

  やOYA 晴屋
    Oisii Yasui Ansin
        おいしい野菜
        安心な食物

というものだ。
ドイツ語のLPGを、ローマ字のOYA
に替えて、八百屋というなじみの
ある言葉にかけている。
分かりやすくて、ちょっと面白くて
うけると思ったのだけれど、残念な
がら大ブーイングの嵐で、あえな
く却下となってしまった。
みな、OYAが嫌なようだ。
良いと思ったのだけれど。
だったら何がいいのかと言うと、
「有機が分かりやすくていい」とい
う提案があった。
たしかに今日、最も定着した表現
だ。
昔は、有機八百屋とうたっていた
時もあった。
有機はとても意味合いの深い言
葉だ。
無機の反対で、一酸化炭素CO
と二酸化炭素CO2等以外の炭素
化合物というのが本来の意味だ。
結合力の強い炭素Cは簡単に化
合しないが、化合するとその状態
を保つ。
生物はその力を利用してエネル
ギーを蓄えたり、身体の組織を作
ったりする。
だから「有機」というのは、生命
活動の証であり、複雑なものが集
合して全体で調和して生きている
状態を表現している。
「有機的」という表現にそのニュア
ンスが生きている。
それが今は、一定期間農薬等を
使っていませんという安全性を証
明する表現となり、すっかり安っぽ
くなってしまった。
それに、とても抵抗がある。
それで妥協策としてTradという言
葉を思いついた。
Traditionalは伝統的という意味。
TradOrganicsは、今の有機でなく
昔からの本来の意味の有機だと
いう自己主張をこめた私の造語
だ。

HAREYA
Trad Organics
        おいしい野菜
        安心な食物

「晴屋」より、下の言葉を前面にだ
したかったので、晴屋はローマ字
にした。
これで一応、皆の了解がとれた。
制作はいつもは私がやるのだが、
今回は外注する。
ミーティング時から参加してもらっ
た小泉さんは、40年以上の付き
あいがある。
私がシティロードという情報誌で
働いていた時のデザイナー兼編
集長だった人で、今は趣味で木
工をし、バザーなどで売っている。
木工の技術は私と大差ないが、
センスには当然光るものがある。
一週間ほどでできるというので、
その間に看板を変更するための
作業をはじめる。
吊り下げ式の両面看板は、今回
の計画の大きさでは、下にあるや
たらと丈夫に作った黒板用の看
板立てとぶつかってしまう。
仕事の合間をみて、15cm切り詰
め、半割の柱用の角材を切って
跡が分からないように付ける。
雨除けのアクリルも切って、はめ
なおす。
ペンキを塗り、照明のスポットライ
ト用の配線もやりなおして、最後は
ペンキで仕上げ。
日常の仕事をこなしながら、この
作業を一日ですませると、すっか
りエネルギーを使い切る。
腕は痛み、腰は強張り、首も固く
なって疲れを主張する。
そして数日後、看板をもって小泉
さんがやってきた。
看板は紺の地に、周囲が木目を
生かしたこげ茶で、人参が立体
的に色鮮やかに浮き出ている。
できはとてもよく、知らない人がふ
らりと入ってくる。
冷やかしが多くて少し迷惑だなと
思うくらいの人を引き付ける効果
がある。
私たちの思いが、実際にどれだけ
伝わっているのかは分からないが、
エネルギーを注いで作ったという
のは感じられるのだろう。
子育ても同じだけれど、何かが伝
わるというのは、内容の問題より、
どれだけエネルギーを注いだか
による。
春の、忙しいだけでなく、何かと
体調や精神が不安定な時期に、
なんとか乗り切って前に少し進め
たと実感できる充実した時だった。
看板は昔から常連さんたちには
何の効果もない。
気が付かない人も多くいるくらい
自然な仕上がりだ。
機会があったら、少し足を止めて、
こんなことにエネルギーを注ぐ老
いた男の馬鹿さ加減をお笑い下
さい。

アバドと静寂の音  その16「静寂への回帰」 2013年 ブルックナー交響曲第9番

アバドと静寂の音 
その16「静寂への回帰」 2013年
ブルックナー交響曲第9番
  ルツェルン祝祭管弦楽団

マーラーよりも30歳以上年上だったブ
ルックナーですが、同じウィーンで主
に活躍した作曲家として、互いに尊敬
していました。
ブルックナーの数少ない支持者として
楽譜の出版の費用を肩代わりしたの
がマーラーです。
ワグナーの信奉者であり、9曲の長大
な交響曲を書いたという共通点はあり
ましたが、その作風はまったく異なる
ものです。
20世紀の近代人として個の確立と葛
藤を描いたマーラーに対して、ブルッ
クナーはあくまで神に身を捧げる熱心
な19世紀のカトリック教徒です。
ですからブルックナーの交響曲はすべ
て神への信仰告白であり、普通の人で
あるブルックナーがいかに神に近づこ
うとしていたかの軌跡とみることができ
ます。
そのためブルックナーの演奏では、人
として自然の一員としての穏やかで素
朴な感性に支えられた柔らかくやさし
いものから、神の絶対的な偉大さを表
す荘厳なものまで、その間でいろいな
解釈と演奏がありえます。
マーラーやブルックナーが見直されて
いる近年では、個としての葛藤と絶対
的なものへの憧れを表現して、自意識
の棘を感じさせる演奏が多いように感
じます。
ですから私がブルックナーを聴くのは、
寒さに向かう秋に、迷走神経が緊張し
はじめ、感覚がピリピリとして張りつめ、
頭の中が妙なことに拘って暴走状態
になる時に、毒をもって毒を制すとい
う時に限られます。
けれどこのアバドのブルックナーには、
毒も、棘もまったくありません。
ふつうは一度聴くとぐったりと疲れてし
まうブルックナーなのですが、何度も
繰り返して聴けて、その都度新しい発
見があります。
足取りはゆっくりとはじめられます。
いつもの颯爽と若々しいアバドはもう
いません。
一音一音を愛しみながら、フレーズは
ていねいに静かに閉じられていきます。
胸に切々と迫る音はアバドの自己主張
でも、ブルックナーへの共感でも、神
への感謝でもありません。
ただここにいて、音楽する瞬間の悦び
です。
壮大な音響は光となりますが、人をさ
す鋭さも、色もありません。
雲間からさす光にも、夕映えの荘厳な
光にも、宇宙をあてどもなく進む光にも
色が無いのです。
モノクロの写真や、水墨画を見るようで
す。
アバドの棒に感応したオーケストラの
メンバーの集中力と緊張感の強さの
連続に、こちらの胸も震えます。
長い長い時間であるような、ほんの一
瞬であるような愛おしい時が続きます。
第2楽章のスケルツォはまるでマンモス
や精霊たちの舞踏です。
得体の知れないものが現れては消え、
命の不思議を語ります。
最終の第3楽章、長く尾を引く音は線
となり、綾となって上昇します。
人の世への哀惜も、栄光も挫折もその
動きを止められません。
ただ、今ここにあることへの感謝と祈り
が捧げられます。
ひたすら素朴であったブルックナーで
すが、アバドはその音に生きることへ
の賛歌を込めます。
ふたたび長い吐息と憂鬱がおとずれ、
死への不安や自分を失うことへの恐れ
がよぎります。
導く糸や光は失われ、それでもひたす
らゆっくりと歩を進めます。
そして突然、ほのかで美しい光が現れ
ます。
多くの演奏ではこの場面を感動的に
演出するために、全宇宙の星がいっ
せいに光るように、壮大で劇的に栄光
を称えようとします。
けれどアバドはひそやかに、慎ましく
光を与えます。
それがいっそう胸に迫ります。
そして再び巨大なものと対峙しますが、
それは自我という自分の影です。
最後にほのかな光が、静かに残ります。
そしてすべての葛藤を通り過ぎ、純化
され、浄化された沈黙がやってきます。
このCDのケースの裏側に、会場を立
ち去るアバドの後ろ姿の写真が残され
ています。
そこにはまったく生気が感じられませ
ん。
肉体的な力をほとんど失った人に、な
ぜこのような音楽を作れるのでしょうか。
真摯に探究を続けたアバドは、ほとん
ど自分のことを語りませんでした。
そして、永遠の静寂の中へ帰ってい
きました。
何故か、アバドがブラームスの交響曲
を再演してくれるものと信じて、待って
いました。
それは誰も聴いたことのない演奏であ
り、誰も至ったことのない場所であるは
ずでした。
その夢は実現することなく終わってし
まいました。
けれどその理想を描き、探求しつづけ
る姿勢の大切さを、アバドは伝えたか
ったのだろうとも思います。
アバドについて私が書けることも尽き
ました。
1年半に及ぶ長い時間、お付き合いい
ただきありがとうございました。
この文章によってアバドを知る旅の入
り口に立ち、何かを追及する悦びを深
めた方がいたら望外の幸せです。

分けありの食べ物たち その6 スパイスのちょっと微妙な話

分けありの食べ物たち その6
スパイスのちょっと微妙な話
先日来、扱っているクミンはとても評
判がよく、新しい香りと味の世界が
手軽に広がるハーブとしてすっかり
晴屋に定着しました。
アメリカでの有機の認証を取った
ものを送ってもらい、晴屋で袋詰め
しています。
有機のものでも、小分けするのに
は有機の認証が必要になり、数十
万円の費用が必要なため、有機と
は書けず、農薬不使用という形で
扱っています。
通常の有機の相場より半分くらい
の価格でお届けできることの方が、
有機の名称よりも重要です。
もう何度も追加で注文をだしてい
ますが、しばらく前からクミンの実、
クミンシードが出荷されなくなりま
した。
問い合わせしてみたところ、種は
発芽するために検疫にひっかかっ
てしまうためということでした。
そのうち、ついにはクミンの粉まで
出荷不能ということになり、もうクミン
は扱えないかと相当に焦りました。
当初、佐川急便ルートだったのを、
ヤマト運輸ルートに切り替えところ、
粉の方は出荷ができました。
佐川急便は実といっしょに粉も取り
扱い不可にしてしまったようです。
クミンが日本で繁殖したら在来植
物に悪い影響がでることもあるかも
しれません。
確かに必要なことだと思いながらも、
組織での決まりごとの難しさも感じ
ました。
そしてもうひとつ気が付いたのは、
日本に輸入されているハーブやス
パイスの大半が芽がでない状態に
なっているということでした。
晴屋に入ってきているクミンには、
「ノン・ラジエーション」と明記してあ
ります。
放射能不照射という意味です。
そう書いていないものの多くは、
放射線で殺菌、殺虫、発芽防止
をしています。
話には聞いていたことですが、何
かとてもリアルです。
ある意味とても便利で、手軽に食品
のトラブルを無くす方法なのです。
輸入されているハーブやスパイス
の多くが放射能照射済みだという
事実を実感します。
ハーブやスパイスは使う量がとても
少なく、食品には放射性物質が残
留しないために問題は無いと言わ
れています。
けれど私たちの命をあがなうものと
して、命を感謝してもらうという意味
では、もう発芽しない命としての力
を失ったものを食べるのに、抵抗を
感じます。
食べるというのは、異物を身体に取
り入れ栄養とする、命を保つために
必要な行為です。
ただ生きていくだけなら何でもい
いかもしれませんし、どんなに最低
限のものでも命を長らえるのには
他に選択の余地はないことも多くあ
るでしょう。
けれど私たちが命としてよりよい生
を求める時には、命をみたし、より
充実した心と身体を作ってくれる
食べ物が必要です。
すでに命としての力を失ったもの
を食べ続けることは、命に対しての
ひとつの冒涜でしょう。
たかがスパイスですが、されどスパ
イスです。
料理の味を引き立て、感覚の楽し
みを充たしてくれるスパイスから、
今の世界の様子も感じられます。
クミンをはじめ、胡椒やローリエ等
の味が違うのにはやはり理由がある
のだなと再認識しました。

アバドと静寂の音  その15「遊びと天心」  シューマン交響曲第2番

アバドと静寂の音 
その15「遊びと天心」 
シューマン交響曲第2番  2012年
  モーツァルト管弦楽団

シューマンはとても分かりにくい作曲
家です。
ふわふわと漂うようで捉えどころがなく、
おとぎ話のような楽しい美しさがあるか
と思うと、時として深い淵を思わせる鬱
積した暗い感情が噴き出してきます。
生存中から著名でしたが、作曲家とし
てだけでなく、評論家、文筆家として
も支持されていました。
バッハの再発見に貢献し、メンデルス
ゾーンやブラームスを評価して世に広
め、ショパンの真価を伝えました。
奥さんのクララも美しく有名なピアニス
トです。
当時の流行の最先端をいく人です。
世の動き、人の持つ力を見ることに長
けており、何をどう伝えれば支持され
るという感覚を身につけていました。
極めて現代的な性格の持ち主です。
病に侵され、薬も効かず、クララに唇
にワインを塗ってもらって症状を緩和
させている時に、「僕は、知っている」
などと言って暗い心の奥底をのぞか
せたりします。
明るく前向きな躁だけでなく、鬱々と
したものも持っていました。
そうした現代性は曲にもあらわれ、情
緒や思索よりも音の運動性がシュー
マンの何よりの個性です。
けれどこの音の動きの中にある動きを
とらえた演奏は多くありません。
シューマンをロマンチックな作曲家とし
て扱う人が多いのです。
私も正直言って、分かっているとは言
えません。
センスも頭もよいけれど、良くも悪くも
現代的な、底の浅さもある作曲家だと
思っていました。
このアバドのシューマンを聴いて、初
めてシューマンに近づけました。
夢幻的な表情と現世的ともいえるよう
な音の運動性が波状的にやってきて、
渦にまきこまれます。
アバドの的確な解釈と棒で、音が絡み
ながら上昇し、リズムがこだまのように
反復しながら変化していくのが手に取
るように感じられます。
行方も知れず流れに身をまかすと、何
にも縛られない世界にいます。
第3楽章のアダージョなど、夢のように
美しいのですが、肉体や感情に直接
訴えるものではありません。
流れるような旋律と大きな波のように
押し寄せる盛り上がりも、美しい映像
のうつろいを眺めているようです。
胸に迫り、内を動かすものはあるので
すが、舞台や映画を見ているようでど
こか切実ではありません。
生活や現実を離れたところにある想像
の世界、いわば作り事です。
芸術とはもちろんそういうものですが、
シューマンの場合はその度合いがとて
も強いのです。
何かを突き詰め、生き方を問う厳しさ
とは違う、責任を離れた自由の世界で
す。
そう、これは最良の意味での「あそび」
です。
アバドはそのシューマンの世界で、背
中の翼をいっぱいに広げて飛翔しま
す。
美しく、切なく、愛おしく、純粋です。
誰のためでなく、誰にも束縛されず、
目的も、責任もなく、自在です。
人間はあそぶために生まれてきたとも
言えます。
意味のないものに意味を与え、虚構
の中に新しい価値を作り、その世界
に自由でいることに歓びを感じます。
アバドはすでに人から評価されること
にも興味を失っています。
オーケストラのメンバーや聴衆に何か
を伝えようともしていません。
音の世界でただ、あそびます。
そこにあるだけで美しく、楽しいのです。
みがきぬかれた、結晶のような「あそび」
の極致です。
人は純粋無垢で、天心爛漫に生まれ
てきました。
世の習いに従っているうちに純粋さを
忘れ、多くの人に支持され、多くの物
を手に入れるのが目的になり、決まり
事を守ることを覚えて、大人になります。
けれど人生の目的のひとつは、歳をと
ってから天心に帰ることです。
天心は、人の存在を超えた大らかで、
伸びやかな動きです。
天と交わって遊び、永遠に感じられる
宇宙の動きと一体になります。
子供の天心は自然ですが、老人の天
心は感覚と精神を鍛え、まっすぐに道
を歩み続けなければえられません。
アバドは人として稀にしか到達できな
い世界の住人になっています。
アバドはいったいどこまで行くのだろ
う。
ワクワクした期待とともに、胸が切なく
疼きます。

分けありの食べ物たち その5 みやの豆腐、見学に行きました

分けありの食べ物たち その5
みやの豆腐、見学に行きました


昨年末から取り扱いを始めた大豆
工房「みや」さんの工場兼店舗は
越生にあります。
梅林が特に有名ですが、近くには
関東で一番大きなクスノキがあり、
太古から時間が止まったような、け
れどひと時も休まずに息づいて、そ
のひと息ごとに少しづつ成長する
静かでたゆまぬ時間の流れを感じ
ます。
周囲には他には商業施設はまった
くない「みや」の店ですが、朝から車
で買い物に来ている人たちがいま
す。
先日の雪の日に、生協への納品の
品物をとどけることができず、2000
品もの製品が残ってしまったそうな
のですが、フェイスブック等で呼び
かけたら、その日のうちに完売した
そうです。
お客さんたちとこまめに良好な関係
を保っているのでしょう。
「みや」の個性は一言で言えば誠
実です。
それも並大抵ではなく、一徹という
言葉が似つかわしいほどです。
社長の宮永琢詩さんは静かなもの
ごしですが、ぶれない強さを感じま
す。
若き「暴れん坊将軍」の風情もあり
ます。

国産にこだわった大豆や天然にが
り、米沢の油などの原材料もです
が、製法も近代的なものを取り入れ
ながら、先代社長の戒めをしっかり
守って受け継ぎ、製品の向上をは
かっています。
北海道、佐賀、栃木の大豆を基本
にして、埼玉の地場の大豆を取り
入れてブレンドしています。
そして機械や製法の改良で、にがり
も最小限ですますことができ、大豆
の風味をより生かすことができるよう
になっています。
圧力釜等を併用することで、消泡剤
はまったく不使用です。
そしてその誠実でまっすぐな姿勢は
スタッフたちにもしっかりと浸透して
います。
私がうかがった当日は、何人かが
インフルエンザで倒れ、とても忙し
い状況でした。
けれど十数人いたスタッフ全員が
邪魔な私に丁寧にあいさつし、対
応してくれます。
もちろん手は休めませんが、無理
に急がず、慌てず、嫌な緊張感な
しに淡々と仕事を続ける雰囲気は
とてもよいものでした。

手間を惜しまず製品を作る姿勢は
当然味にもにもあらわれます。
全体に少し固めで、素材感を強く
感じるということ以外には際立った
味の個性はないのですが、食べて
何かホッとして心安らぐ感じはまさに
この雰囲気そのものです。
店頭ではほぼ全品の試食もできま
した。
まだ食べたことのなかった、白ごま
入りの絹豆腐はちょっと衝撃でした。
見た目には黒ゴマ入りの方がイン
パクトは強いのですが、まるで胡麻
豆腐そのものであるような濃厚な
クリーミーさは、今までに食べたこと
がありません。
まだ晴屋の取り扱い品目にはなっ
ていないので、夏までには入荷する
ようにしたいと思っています。
そして評価の高いのが油揚げです。
これも丁寧な仕事の賜物としか言い
ようがありません。
特に他の豆腐屋さんたちとの作り方
の差はないのですが、甘さや香り、
素材感など際立っているのです。
それを原料にした「味付け油揚げ」
もとても美味しく、好評だった丸和
のものを軽く上回っています。
三之助や丸和を止めた理由の一つ
です。
「味噌漬け油揚げ」も絶品です。
これはそのままでもいいのですが、
フライパンで軽く焼きます。
晴屋で大好評のこんにちは料理酒
プレミアムはこれに使っていることか
ら関心を持ちました。
濃厚な旨味と香りが食欲と酒欲をそ
そります。
晴屋では豆腐では「そふともめん」
が圧倒的に支持されています。
三之助の代わりとして柔らかくやさ
しい風味があるためでしょう。
みやの店頭では通常のもっと固い
「もめん」が評価が高いそうです。
市販品と差が大きいのは「きぬ」で
す。
普通の絹豆腐は味も素っ気もなく、
ただツルンとして喉ごしがいいだけ
なのですが、みやのきぬは大豆風
味がしっかりあって、口の中で香り
がほどける、別次元の味です。
もめん豆腐    320g  255円
そふともめん豆腐 300g 245円
きぬ豆腐       300g  245円
焼き豆腐      300g  265円
油あげ      2枚  235円
生あげ       2枚  255円
がんもどき     1個  188円
味噌漬け油あげ 2枚 345円
味付けいなり   3枚 408円


アバドと静寂の音  その14「魂の歌」  マーラー交響曲第9番

アバドと静寂の音 
その14「魂の歌」 2010年DVD
マーラー交響曲第9番
  ルツェルン祝祭管弦楽団

この第9交響曲は、マーラー最後の完
成された交響曲です。
それまでの作品などからの様々なメロ
ディーが消えては現れ、写真のコラー
ジュを見るように賑やかです。
そして最終の第4楽章の最後には、「
死に絶えるように」という指示が書き込
んであります。
死を恐れ、半面で惹かれ、ベートーヴ
ェンが9曲の交響曲を残したことを意識
して、この前の作品には9番という番号
を与えず、「大地の歌」という題をつけ
ました。
そんなマーラーが覚悟をもって持てる
ものをすべて注ぎ込んだ曲です。
音は活気をもって常に流動し、変化し、
同じことの繰り返しがありません。
それなのに全体に渡って大河のような
大きな流れが感じられ、一貫した力が
持続します。
第4楽章に入ると音楽はゆっくりとした
弧を描いて下降します。
過ぎ去った日々への哀惜と遠いあこが
れが交錯し、胸にこみあげます。
20世紀の近代人であるマーラーにとっ
て、死とは神に召されることよりは、自
己の消滅であり、完成よりは敗北や終
焉という意味合いが強くなっているの
でしょう。
劇的な盛り上がりの中にも哀愁とノスタ
ルジーが混じりあい、くすんで重い色
合いが持続します。
マーラーの最高傑作として、バーンスタ
インや、バルビローリ、カラヤン、ジュリ
ーニなどの名演奏がきら星のようにあ
ります。
その中でもアバドの演奏はきわめて
個性的です。
音の表情はとても振幅が大きいのです
が、激情や自己陶酔にはほど遠く、透
明で静けさが支配します。
しかし他の誰の指揮したものより、深く
胸に迫ります。
感情よりも、もっと深い部分に共鳴する
のです。
知性と感性によって構築された精神を
も通過し、もっと根源的なもの、静かに
絶えず内側で燃え続けるもの、魂とい
う言葉でしか表現できない何かに至り
ます。
初めてなのに懐かしく、手に触れるこ
とがないのに暖かい。
その渦は多くの人を巻き込みます。
世界屈指のフルート奏者で、ベルリン
フィルに在籍するエマニュエル・パユ
がインタビューに答えて、この曲のア
バドとの演奏の体験を語っています。
「私の音楽に対する姿勢を変える体験
がありました。
ある年、マーラーの第9をアバドとのツ
アーで25回演奏したことがあります。
彼はその25回すべてで、オケのメンバ
ーや聴衆を金縛りにしました。
誰もが身じろぎもせず、息をのんだの
です。
全てが絶対的な静寂の中に消えてい
た。
現実にかえるのに時間がかかりました。
ある時は1分以上も、誰かが耐えきれ
なくなって拍手か、咳を始めるまで続き
ます。
あのマーラー第9は本当に特別でした。」
この演奏のDVDに見るアバドは静かに
消え入るように、しかし長く続く感動の
余韻と一体となって指揮を終えます。
まるでアバドも同時に静かに息をひき
とってしまうのではないかと思えるほど
です。
長い、長い静寂の後の心をこめた拍手
とブラボー。
アバドもインタビューに答えています。
「私にとってよい聴衆とは、消えゆく音
の時に静かにしていてくれる聴衆です。
沈黙は重要です。」
心の動きや感情の高まりは私たちの
存在のごく表面、外界との境界部分
の波です。
もちろん重要で無視できませんが、そ
れに心を奪われると内側の動きやひそ
かに燃え続けるものを見失います。
目をつぶって、静かに自分と向き合う
沈黙の時間は何にもかえられません。
アバドは感情に訴えることに背を向け、
精神で人を圧することを拒みます。
そして、魂の炎を輝かせます。

アバドと静寂の音  その13「過激と革新」  モーツァルト後期交響曲集

アバドと静寂の音 
その13「過激と革新」 2008年
モーツァルト後期交響曲集
  モーツァルト管弦楽団

モーツァルト管弦楽団を組織し、数々
の協奏曲で経験を積み、互いの感覚
をすり合わせて、高めていったアバド
はついに交響曲に取り組みます。
交響曲という重たい形式をどう表現す
るかで指揮者の力量が問われます。
そのため強い音や音の流れより構造
を感じさせる、少し大げさな演奏が多く
あります。
アバドは軽々と音の奔流を作り、その
渦に飛びこみます。
修練を積んでモーツァルトの音を表現
できるオーケストラを自由に歌わせな
がら、要所でギアを入れ替え、スピード
や方向、表情を変化させます。
的確なアバドの棒やニュアンスに富ん
だ左手の動き、目や顔の表情から伝え
られた意図は、確実に奏者を動かしま
す。
音楽は瞬間瞬間に立ち上がり、明滅
しながら張りつめて流れていきます。
団員たちは自由に演奏しているので
すが、確実にアバドの動きの中にいま
す。
そのためアバドが選ぶ音の刹那を伝
えます。
美しい流れを重んじていた穏やかなメ
ロディーに、次の瞬間切実に迫る強い
表情が加えられ、最良の音を探して
一音に気迫をこめます。
それが波紋のように広がって次の音の
飛躍を求め、開放の後、また永遠に帰
るように柔らかな音が奏でられます。
作曲家の意図を意識しながらも、演
奏者たちの個性やコンディション、演
奏の流れなどがせめぎあい、次の一
音が選ばれます。
旋律の歌い方で演奏者や指揮者の
主張をこめるフレージングも伸び縮み
しながら、もっとも切実な音が置かれて
いきます。
その瞬間の軋むようなスリルにこちらが
息をあわせると、音の渦に巻き込まれ
ます。
過激でエレガント、均衡を保ちながら
の飛翔に、身体中の細胞が揺さぶられ
洗われるようです。
享受する立場でなく、音楽に生き、作る
目線にたった演奏は、昔の曲ではあっ
ても現代音楽として今に生きる私たち
に迫ります。
アバドは若い時に、指揮者かピアニス
ト、作曲家のいずれになろうか迷いま
した。
指揮に自分の感性を投入して多くの
人をまきこんで感動の渦を作ることが
できるだけでなく、ピアノも上手でした
し、現代音楽への造詣も深く、新しい
音楽へも感覚の扉を開いていました。
私も定期的に現代音楽に惹かれます。
そうした時は伝統的なクラシック音楽
に、居心地の悪さを感じます。
重たくまとわりつき、わざとらしさや嫌ら
しさが鼻につきます。
けれどそうした時でもアバドが指揮した
ものには素直に音楽の流れに入って
いけます。
アバドの音楽は常に最先端で、革新
的なのです。
それは単に知的で、最新の研究を演
奏に取り入れたというだけではありませ
ん。
音楽に向かう姿勢そのものが常に新鮮
です。
あらかじめ決められた調和や安心でき
る感動をなぞるような演奏からは遠いと
ころにいます。
容赦なく今を見つめ、情熱を開放し、
構成への意志をもって音を締め、団員
の創意を汲んで次の飛翔へ導きます。
刃の上を渡るような緊張感なのに、何
にも規制されない伸びやかな愉悦が
あります。
こうした音楽にはこちらも飛び込んで
いかないと、何も語ってくれません。
謙虚で奥ゆかしくもあり、不親切でも
あるかもしれません。
アバドは多くの人たちに支持されるよ
りは、本当に理解してくれる人たちの
ために音楽をしたかったのでしょう。
聴く側の姿勢をも厳しく問う演奏です.
人の心の機微をそのまま音に託した
モーツァルトの音楽には、今ここに音
楽が生まれた瞬間の新鮮な感動を音
に再現する姿勢は最適です。
優雅で上品なモーツァルトも、アバドの
棒によって、今を息づく現代音楽となり
えました。

アバドと静寂の音  その12「無の意味」 バッハ「ブランデンブルク協奏曲」

アバドと静寂の音 
その12「無の意味」 2007年
バッハ「ブランデンブルク協奏曲」
  モーツァルト管弦楽団

ブランデンブルク協奏曲は、バッハの
作品の中でもとりわけ創意と感性の
きらめきを感じさせる曲です。
六つの曲からできていて、それぞれに
個性があり、聴いていて飽きることが
ありません。
合奏による豊かな起伏や、ソロでの華
やかな見せ場など、バッハの音楽へ
の情熱がほとばしっています。
ロッシーニやマーラー、チャイコフスキ
ーなどロマン派の演奏で世評が高い
アバドとバッハとはイメージが結びつき
にくいのですが、家族でアンサンブル
を楽しんでいたアバドにとっては親し
みのある曲なのかもしれません。
若き巨匠として、スカラ座の音楽監督
になった時も、アンサンブルを整える
手段として室内楽を推奨し、スカラ座
のオーケストラを使ってこの曲を録音
してもいました。
滑らかに磨かれた、楽しく微笑ましい
演奏でした。
しかし今回は人数を切り詰め、バッハ
が作曲した当時のオリジナルの姿に
近づけています。
それは時代考証までも意識したアバド
らしい知的なアプローチです。
けれどそれがアバドの解釈を浸透させ
るための手段とはなっていません。
むしろアバドが前面に出ることを避け、
奏者たちの音楽性を引き出すための
方法となっています。
そして集められているのはアバドがみ
そめた超一流の音楽家たちばかりで
す。
リコーダーのペトリ、トランペットのライ
ンハルト、ホルンのアレグリーニ、ヴァ
イオリンのカルミニョーラなどが、顔を
見合わせ、楽しそうに目くばせしなが
らも、時折真剣な表情で至難なフレー
ズに立ち向かいます。
音楽は自然に立ち昇り、何の夾雑物
を含まずに、透き通るような美しさです。
顔は自然にほころんで、胸に温かなも
のが流れます。
普通には4番か5番くらいしか真剣には
聴かないのですが、地味な1番や2番
でも、その溌溂とした表情や、今まで
にバッハでは感じたことのない哀愁に
心が反応し、一瞬を楽しみながらずっ
とその流れに身をまかせたいと感じま
す。
続けて何度聴いても飽きることのない
演奏です。
知人たちとこの演奏のDVDを見たこと
があります。
その時、音楽に詳しい友人が言いまし
た。
「アバドはなにもしていない。
このメンバーを集めた時点で成功は
約束されていた。」
確かにアバドは特に指示も出さず、音
にあわせて弱々しく棒を振っているだ
けに見えます。
特に編成の小さい6番では、アバドは
舞台に上がらず、メンバーたちだけに
よる、室内楽として演奏させています。
そうした場合でも演奏の質はまったく
変わらずに維持されています。
そこにアバドという存在が持つオーラ
のようなものを感じます。
自分を消し去っても、美しい音楽を奏
でたいという強く明確な精神です。
多くの演奏家は、自己を主張すること
を芸術と思い、自己を主張する手段
として芸術を使います。
演奏家たちは、「私は全てを犠牲にし
て音楽に打ち込んでいます。私ほど作
曲家や楽譜に対して忠実な音楽家は
いません。」と皆、思っています。
しかし出てくる音は、演奏家の個性そ
のものです。
それだから音楽は面白いのですが、
アバドはあくまで自らの痕跡を残さず、
音楽が持つ力を引き出そうとします。
その意志と精神がメンバーたちに伝播
し、楽しいのに真剣そのもの、自発的
なのにイメージが統一され、全力なの
に力の抜けきった愉悦があるという、
稀有な時がおとずれます。
静寂を愛し、無の意味をつきつめて
いたアバドの個性がもっとも発揮され
た演奏の記録のひとつです。

アバドと静寂の音  その11「音の意味」 2006年 モーツァルトクラリネット協奏曲

アバドと静寂の音 
その11「音の意味」 2006年
モーツァルトクラリネット協奏曲

モーツァルト管弦楽団

ベルリンフィルを退団したアバドは二
つの新しい仕事を始めます。
ルッェルン祝祭管弦楽団では、それ
まで手塩にかけて育てた若い演奏家
主体のマーラー室内管弦楽団に、
ベルリンや他のオーケストラの特に
アバドが認めた優れたトッププレーヤ
ーを加えて、規模の大きな作品にエ
ネルギーを注ぎます。
もうひとつがモーツァルトゆかりのイタ
リア・ボローニャを本拠地とするモーツ
ァルト管弦楽団です。
18~26歳に限定された若い演奏家
に混じって、何人かのスタープレーヤ
ーが加わり、音に深みを与えます。
比較的規模が小さく、音で室内楽的
な会話ができるこのオーケストラのメイ
ンテーマはやはり、モーツァルト。
それまでのキャリアの中で、モーツァ
ルトを慎重に扱い、アバドは決して多
くの録音を残してきませんでした。
秘められた決意が機会をえて、一気
にあふれでます。
音が俊敏に立ち上がります。
特にヴァイオリンの積極的に切り込む
音が私たちの感覚を揺さぶります。
しかし決して突出せず、全体の均整
を保っています。
アバドはメンバーにまわりの音を聴く
ことを要求します。
けれどそれはトラブルのない、無難で
安全な演奏をするためではありません。
優れた演奏家の自らの感性からでた
きらめきをとても大事にします。
その一瞬のひらめきを次の音のステッ
プとし、さらに次のきらめきを求めます。
音楽にフレージングという感覚があり
ます。
クラシックの音楽では楽譜によって、
出てくる音は決まっています。
それでも人によって演奏の印象がま
ったく違うのは、そのフレージングと
いう、フレーズをどう扱い、どう歌い、
どう考えるかということが音に表現され、
その人の感性や精神が伝わるからで
す。
しかし現代の演奏家でこの感覚を明
確にもって、しっかりと表現できている
人は驚くほど少ないのです。
それが今の演奏の多くが、形は整っ
ていても、聴いていてつまらないこと
の一因です。
アバドは生まれつきその感覚を持ち、
家庭内での室内楽で子供のころから
その感覚を育て、その気になればい
つでも周囲を巻き込むこともできまし
た。
けれど独裁を嫌悪し、民主的を標榜
するアバドは容易にその感覚を開放
しませんでした。
しかし、病を経過したアバドに遠慮や
迷いはもうありません。
活気あふれる音に微妙で絶妙なニュ
アンスをこめ、モーツァルトの音楽を
拓きます。
このクラリネット協奏曲はそうした演奏
の中でも特に印象的です。
美しく淡々とした流れの中に、細や
かな感性のきらめきが散りばめられて
います。
打ち寄せる波のような音に身をまかせ
ていると、内から哀愁がこみあげてき
ます。
この生の美しさと儚さはモーツァルト
そのものです。
それを情動への共感でなく、音その
ものに語らせて高みへ導く境地にま
でアバドは到達しています。
伝統や常識にとらわれた大人でなく、
まだ手垢のつかない新鮮な感性を持
つ若者たちがいるからこそ可能な表
現です。
それは何よりアバドの求めたものでし
た。
ため息がでるような瀟洒な美しい流れ
に身をまかせると、自分の内なる世界
と大きく広がる外の世界の境界が消
えさります。
過去の巨匠たちは、巨大な自我意識
で聞くものを圧倒し、その世界へ誘い
ました。
一見さりげないアバドの音楽は、自我
を消しながら、幽玄とも、純粋とも、天
心ともいえる地点まで達している、き
わめて稀で個性的なものです。
そして聴く者も、演奏する者も、気づ
かぬうちに、階段を昇っていきます。
アバドの容赦のない探求は続きます。

分けありの食べ物 番外その2 小麦粉に頼らないくらし その2

小麦粉に頼らないくらし その2
小麦製品をなるべく食べないようにし
て、もう一月近くになりました。
試食や好意で出されたお菓子なども
あり、まったく食べないわけではない
のですが、機会はわずかになってい
ます。
身体の変化としてはやはり内臓関係
が大きいものがあります。
なんとなく下痢状の大便がここ何年か
多かったのですが、大幅に減りました。
それでも時々、べたっと重たい便が
でることがあります。
私の感じでは内臓内に溜まっていた
グルテンを排出しているのかと思っ
ていて、前向きの変化なのでしょう。
お腹も少しスリムになってきました。
また疲れの抜け方が早くなっている
ようにも感じます。
歳をとっていろいろやっているのです
から、疲れるのは仕方ないのですが、
立ち直りが少し早まりました。
そして一番の変化は頭のぼうっとした
感覚が減ってきていることです。
個人的にはこれが一番うれしい変化
です。
頭のクリアな感じはとても心地よく、
ぜひとも維持したい感覚です。
まだ時折、小麦を食べたい要求が
ムクムクと頭をもたげますが、頭のクリ
アな感覚と引き換えかと思うと我慢で
きます。
こうしたグルテンを摂取しないことで
の変化は人によってまちまちなよう
です。
小麦アレルギーやグルテンアレルギ
ーは抗原抗体反応の過敏による病
気ですが、グルテン不耐性(過敏症)
は病気というよりは、ケガです。
グルテンが腸壁にくっついて、剥が
れる時に腸壁に傷がつき、それによ
って免疫に異常をきたします。
その症状は人によって、その人の生
まれつきの体質や今の状況によって
まちまちです。
私のように下痢になってなんとか排泄
しようとするタイプもありますが、反対
に吸収力を維持するために便秘にな
る人もいます。
「関節痛、うつ、湿疹、皮膚炎、頭痛、
疲労感、イライラ感や異常行動、月経
不順や不妊、こむら返り、うずくような
痛みやしびれ」などが報告されてい
ます。
免疫がおかしくなったら何が起きても
不思議ではありません。
はじめは小さく、問題にならない傷も
増えて、広がっていけば致命傷とな
ることもありえます。
特に歳をとってくると、傷の回復力は
衰え、ダメージはより大きくなります。
症状がまちまちであるため、グルテン
不耐性であることを自覚していない
人が大勢います。
私も体の感覚を自覚することには少し
自信があったのですが、なかなか思
い至りませんでした。
1960年代に小麦の品種改良が進み
増産とグルテンの増加が始まってか
ら、これは全人類に必然的にやって
きた現実です。
小麦に頼る割合が多い西洋人には
とても深刻な問題です。
老化が早まり、衰えや病気を誘発す
るのは確実です。
そのために、なるべく小麦に頼らない
くらしを考えるべきでしょう。
この提案をしてから、米粉がよく売れ
るようになり、パンが少し売れなくなっ
ています。
パン屋さんには米粉を使ったパンを
期待しています。
また晴屋の店頭にある「プンパーニッ
ケル」「フォルコンブロート」といったラ
イ麦だけのパンはよく売れています。
ライ麦は繊維が多く水をよく吸収しま
す。
そのためライ麦100%のパンは、グル
テンはあってもグルテン形成されて
いないのだそうです。
ご存知の通り、パンは水を加え、よく
練ることで粘りが出て膨らみます。
けれど水がないとグルテン同士がく
っついて網目状になるグルテン形成
がされません。
そうするとグルテンはあっても、それ
はただのたんぱく質で悪さはせず、
グルテン不耐性には影響がありませ
ん。
「プンパーニッケル」は二日間ほど低
温で蒸し焼きにしてあり、すこし甘さを
感じる深い風味です。
「フォルコンブロート」は220℃ほどで
普通に焼いてあり、少し酸味を感じる
すっきりした風味です。
いずれも小ぶりですがずっしりと重く
7枚にカットされています。
小さくても胚芽食パンと同じ重さがあ
り、一枚は薄くても一枚で食パンと同
じボリュームです。
そう思えば1パック400円もそう高い
ものではありません。
焼けばより香ばしく美味しくなります。
小麦のパンの代替品としてとても役
にたちます。
麺の代替品としては、米の麺が価格
からいっても、取扱のしやすさから
言ってもおすすめです。
ただアジア産が多い米の麺は、原料
米の遺伝子組み換えの問題で不安
もあります。
中国やベトナムではかなり混入して
いるようです。
タイでは遺伝子組み換え米が認可さ
れていません。
タイ産の原料と確認ができれば、一応
安心でしょう。
晴屋のホーザンビーフンは確認済み
です。
もう少し幅の広いセンレックも確認がと
れたものを店頭に並べたいと思って、
今検討中です。
いずれも焼きそば、汁麺に使えますが、
使うコツは熱湯で戻さないことです。
そうするとブツブツと切れやすくなり、
食感もグニャッとして美味しくなくなり
ます。
水か、せいぜいぬるま湯で20~40分
ほど時間をかけて戻します。
戻した状態で冷凍もできます。
米麺はもう火が通っているので、さっ
と温まったら出来上がりです。
焼きそばには強火で少し焦がすつも
りでさっと炒め、水分が足りない場合
ひとり前大匙1~2杯のスープか水を
加えて火を通すのがコツです。
汁麺はスープに入れて温まったらそ
れで出来上がりで、なれると簡単です。
食感の良さと旨味と香ばしさが味わえ、
小麦に戻りたい要求がなくなります。
小麦を食べない決意をするのは大変
ですが、まったく食べないのでなく、
なるべく減らして違う楽しみを見つける
のもいいのではないでしょうか。

クミンとシラチャソースの楽しみ

クミンとシラチャソースの楽しみ
人間は何のために生きているのかと
いえば、やはり楽しさを追及するため
でしょう。
そのために引き受けざるをえない大
変さや責任はあるとしても、楽しさが
あるうちは耐えて続けることができま

す。
ドイツでは楽しいことの少なかった私
ですが、その中での味の楽しさでは
「ケバブ」が圧倒的でした。
トルコの料理と思われていますが、
意外に発祥はベルリンで、トルコの移
民のひとたちがこの地にある材料で
考え出したものだそうです。
温かく焼いた少ししっかり目のコッぺ
パンのようなものに、香ばしく焼いた
牛か鶏の肉とたっぷりの野菜、そして
深みある味わいでちょっと辛いソース
がはさまっています。
メリハリがありながら、深い味わいもあ
り、心と体を満たしてくれる完璧な食
べ物と感じました。
けれど自分では出せない味だとあき
らめていたのですが、ポイントはクミン
なのだとわかりました。
クミンはカレーにも多用される清涼感
と豊かな香りを持つスパイスです。
日本ではなじみの薄いものですが、
世界では胡椒と同じくらいに最も利用
されることが多いものなのだそうです。
消化を助け、抗がん作用、関節炎の
症状の緩和などの薬効が知られてい
ます。
中世には恋人等の心変わりを防ぐ働き
があると信じられ、ポケットに忍ばせる
習慣があったそうです。
そんな人の心と体に温かなものをとり
もどさせるクミンですが、なんとか晴屋

でも扱えないものかといろいろと調べて
みましたが、結構高価で入荷のロットも
多く、悩んでいました。
それがアメリカで有機の認証をとった物
が、安く手に入れられるのを発見しまし
た。
それとほぼ同時に、シラチャソースとい
うタイのホットソースの有機の物も入荷
することになりました。
本来はシーフード用に作られましたが、
肉や野菜等何にでもあうので、今は欧
米ですっかり定着しています。
そしてこの二つの相性が抜群なのです。
これで完璧にケバブの味が再現でき
ます。
またご飯にのせて、レタスをトッピング
すれば沖縄のタコライスもできます。
ピザソースにも使えます。
基本はケチャップ3に対して、シラチャ
ソースを1の割合で混ぜ、好みの分量
のクミンの粉を加えます。
肉や魚、練り製品等を炒めて、この割
合の調味料で味付けして冷蔵庫に保
存しておけば、何にでも使え日持ちも
し、油でコーティングされて風味も長持
します。
クラッカーやタコス、トルティーアチップ
にもあいます。
温めたパンに野菜等とはさんでソース
をからめれば簡易ケバブです。
エスニックな味の楽しみを手軽に味わ
える万能ソースです。

 

分けアリの食べ物たち 番外1小麦に頼らない暮らし

分けアリの食べ物たち 番外1

小麦に頼らない暮らし
小麦グルテンは腸内で腸壁にくっつ
き、はがれる時に繊毛やセンサーと
なる細胞を壊していきます。
そのために免疫システムがきちんと
働かなくなり、時とともにトラブルが発
生します。
先週、小麦粉に頼らない暮らしの提
案をしましたが、今週はその続きで
実践編です。
小麦に多量に含まれるグルテンです
が、その他の大麦やライ麦にも同じ
成分が含まれています。
どれくらいの量が問題になるのかは
その人によってまったく、まちまちで
す。
私を含めて大多数の予備軍の人たち
は、ふだんからなるべく避ける程度で
も、長い年月での蓄積には差は大き
なものになると心がける程度でもいい
でしょう。
その中で比較的避けやすいのがお
菓子です。
下に米粉を使った美味しいクッキー
のレシピをのせましたので、ぜひお
試し下さい。
麺類もパスタやうどん、そうめん、そば
等に利用されていて、食べないでい
るのはやはり難しい食べ物です。
古代小麦を使ったパスタや雑穀の麺
もありますが、使い切るのはなかなか
厳しいものがあります。
その中ではビーフンが扱いやすく、
味や食感も楽しめます。
ただベトナムや中国産のものは遺伝
子組み換えの米が使われている可能
性が高いので避けるべきでしょう。
タイでは遺伝組み換えの米が認めら
れていないため比較的安心です。
タイ産ビーフンでも他の国の米が原
料となっている場合もあるでしょうが、
晴屋で扱っているホーザンビーフン
はタイ産の米のみという確認ができ
ています。
焼きそばだけでなく、ラーメンにもとて
も美味しく食べられます。
一番生活から切り離しにくいのが、パ
ンでしょう。
香ばしく、深い旨味と手軽さで、本当
に私たちの暮らしに根付いています。
特に欧米の人たちの食べる量には
驚かされます。
それだけに健康への影響も大きなも
のがあり、食品に「グルテンフリー」と
いう表示が当たり前のものとなってい
ます。
あまり無理をして切り離そうとすると
禁断症状が出て、反動でやけ食い
したりしますし、精神衛生上もよくな
いでしょう。
モスバーカーには、ライスバーガー
や低ストレスのバーカーが揃えてあ
りますが、こうした状況が増えてくる
ことを望ながら、なるべく最小限にす
るしか方法はないでしょう。
お米の粉は代替品としてとても役に
たちます。
晴屋ではオーサワジャパンの農薬不
使用の国産「米粉」500g658円、健康
フーズの有機栽培米使用の「お米の
粉」250g480円を扱っています。
昔の上新粉との違いは、製粉の差で
す。
微粉末製法で細かくしたものなので、
用途が広がり、クッキー等にも使える
ようになりました。
美味しく、食べることを楽しむための
ひとつの方法として利用していただく
といいかと思います。

 

丹野さん家のクッキー

料理上手な丹野さんの米粉を使った
クッキーのレシピです
材料はこの通りでなくても、いろいろと
応用できる、少し固めと柔らかめの生
地です

くるみとチョコレートのクッキー
おからで香ばしいサクサクのクッキー
適度の歯触りも楽しい、しっかりとした
味わいです
材料
バター 62g、洗糖 90g、塩 ひとつ
まみ、卵 25g、バニラエッセンス 適
量、米粉 90g、おから粉 20g(なけれ
ば米粉を増やす)、チョコレート 50g、
くるみ50g
準備
*卵、バターは室温に戻す
*チョコレート、くるみは刻む
*オーブンを180℃に予熱する
作り方
1.ボウルにバターを入れ洗糖を3回に
分けて入れ、そのつど木べらでよく
混ぜる
2.塩を加えて混ぜ、卵を3~4回に分
けて加え、そのつど混ぜる
3.バニラエッセンス、米粉、おから粉
を加え、よく混ぜる
4.チョコレートとくるみを加え混ぜる
5.大匙2くらいを手に取って丸め、
オープンシートを敷いた天板にのせ、
直径4㎝くらいに手で伸ばす
6.180℃のオーブンで15分焼く

ディアマン
ほろほろと繊細で柔らかな感触の
フランスタイプのクッキーです
フードプロセッサーがなくてもよく混
ぜれば大丈夫です
材料
バター 60g、米粉 75g、アーモンド
パウダー 10g、洗糖 20g、塩 少々、
牛乳 8g、バニラエッセンス 少々
(仕上げ用)卵白 適量、洗糖 少々
準備
*卵、バターは室温に戻し、2cm大に
切る
*オーブンを180℃に予熱する
作り方
1.牛乳と仕上げ用の材料以外のもの
をフードプロセッサーの容器に入れ、
撹拌する(もしくはボウル良く混ぜる)
2.さらさらになったところへ牛乳を加
えて撹拌し、生地を台の上にとり出し
手でひとまとめにする
3.ラップで包んで冷蔵庫で10分ほど
休ませてから、直径3cmほどの棒状
に伸ばす
4.ラップに包み、切りやすい固さにな
るまで冷蔵庫で最低2時間以上休ま
せる
5.とり出した生地の周りに卵白をハケ
で塗り、バットに洗糖を広げ、この上
に生地を転がして洗糖を付着させる
6.1cm幅に切って、オーブンシートを
敷いた天板にのせ、180℃のオーブ
ンで20分焼く

分けありの食べ物たち その4 小麦のちょっと微妙な話

分けありの食べ物たち その4
小麦のちょっと微妙な話
晴屋で扱っている小麦粉は大半が
岩手産のものです。
薄力粉の「北上」と強力粉の「雪力」
は直送でやってきます。
中力粉の「南部小麦」も岩手産です。
栽培期間中農薬不使用で、保管中
もバルサン等の薬剤を使っていませ
ん。
臭みのない、すっきりした風味で何
でも使える「北上」、希少な国産の
強力粉「雪力」、豊富な旨味とグルテ
ンで他にかえられない美味しさの「南
部小麦」をいつも揃えています。
また南部小麦粉は細かく製粉してあ
るため、パン作りにも使えます。
もうひとつ置いているのが東久留米
で秋田さんが作っている「地粉」で
品種は農林61号です。
無肥料自然栽培の中力粉です。
いづれも、製品の質の確かさの割に
価格はリーズナブルで、晴屋自慢の
品物たちです。
さて問題はここからです。
小麦の美味しさはとても魅力的で、
私など3食パンや麺で大丈夫なほど
です。
しかしその美味しさに落とし穴があり
ます。
3大アトピーは以前は、卵・牛乳・大
豆でしたが、今は大豆の代わりに小
麦になっています。
それほど世の中に蔓延し、定着して
きています。
アトピーといっても小麦の害には、3
種類あります。
いわゆる小麦アレルギーとグルテン
不耐症、セリアック病です。
昔から粉屋の子供が小麦アレルギー
になるという話は伝わっていましたが、
ごく一部の特殊な話であり、多くの人
たちにとって問題となってきたのは、
1960年代以降だそうです。
その頃に小麦の品種改良が大幅に
進み、収穫量が多く、美味しい小麦
が市場にでまわるようになりました。
緑の革命と言われ、画期的な改良
でしたが、化学肥料を使うことを前
提としたものでした。
それによって特殊なグルテンの含有
が増えました。
そのため少量だったら何も問題もな
いグルテンが、大量に摂取したため
にトラブルを引き起こしはじめました。
またその時期から同時に使われはじ
めた農薬との弊害も指摘されていま
す。
アレルギーという免疫反応の他に、
グルテンが小腸壁を壊して免疫力
を減退させていきます。
少量なら体の回復力で戻せますが、
小麦は一度に大量に摂取したり、い
ろいろな食品に含まれていてトータ
ルで多く食べているために問題が起
きます。
比較的症状の軽いグルテン不耐症
(グルテン過敏症ともいいます)の症
状として、下痢、便秘、吹き出物、
疲労感、めまい、偏頭痛、関節の
痛み、うつ状態などがあげられます。
下腹部のぽっこり状態も小麦の影響
が大きいといわれています。
グルテン不耐症は検査でもわかりに
くいのですが、小麦を食べないでい
るとはっきりとした差がでます。
私も一週間ほど、ほとんど小麦製品
を摂取しないように気をつけていた
ら、慢性的に続いていた下痢が治り
疲労感も改善されました。
お腹のぽっこりも減りつつあります。
若いころは何の問題もなかったので
すが、年齢とともに免疫力が落ちて
きたために症状が出始めたのでしょ
う。
私程度の反応の場合、まったくグル
テンを食べないとまでいかなくても、
気をつけて減らすだけで、効果が
あらわれます。
グルテン不耐症は自覚していない人
も多く、また予備軍もいっぱいいるで
しょう。
美味しくて、魅力的で、手軽に何に
でも使える小麦ですが、少しづつ減
らしていく自衛策が必要です。
小麦が主食の白人たちが老いるの
が早かったり、下半身の肥満が多い
のも小麦が一因です。
小麦の持つ中毒性で、禁断症状に
陥る人も多くいます。
ドイツではすでに学校教育の中で、
グルテンの問題を取り上げているそ
うです。
小麦に比べて、ライ麦や大麦はその
グルテンが少なく、スペルト小麦等の
古代小麦にはほとんど入っていない
そうで、そうした替わりの製品の紹介
まで学校でしています。
収穫量が多く、美味しくて、便利な
小麦ですが、人類を明るく照らす希
望の作物というだけでなく、闇の部分
も持っています。
後進国への援助として使われ、美味
しさを覚えた人たちが小麦を求める
ようになり、グローバル化の波にのみ
こまれ、生活はより貧しくなります。
小麦はきわめて戦略的で、政治性
のある食べ物ものでもあります。
自分自身や家族の健康を守るため
に、小麦の使用を減らしていく生活
が求められる時代となっています。

アバドと静寂の音  その10「復活」 2001年 ベートーヴェン交響曲集

アバドと静寂の音 
その10「復活」 2001年
ベートーヴェン交響曲集
 べルリン・フィル

「そして、帰ってきたとき、彼は別の人
になっていました。

死の淵に立った人間として私たちに
話しました「君たちが、私の命をつな
ぎとめた」と。
その瞬間から最後の数年の関係が
一変しました。
皆が愕然と悟ったのです。
この人は音楽がすべてなのだと。
他ならぬ我々と音楽することがすべ
てなのだと。」
ベルリンフィルのメンバーの証言です。
胃癌の手術の後、数週間の休みの
あと復帰したアバドは、すっかり痩せ
て一まわり小さくなっていました。
けれど眼の輝きは増し、音楽への情
熱はあせるどころかより色濃くエネル
ギーを発散させます。
力の抜けた指揮の姿もよりエレガンス
なものとなりました。
このベートーヴェンのライブ録音での
交響曲全集は、アバド退任の1年前
のもので、彼らの結びつきと音楽成
果のなかでも最高のもののひとつです。
会場は本拠地のベルリンフィルハー
モニカが改修中のため、ローマにあ
る劇場です。
伝統を感じさせる美しい建物ですが、
ベルリンに比べるとずいぶんと小さな
ものです。
そしてアバドはオーケストラの人数を
通常よりずっと絞り込み、ベートー
ヴェンが作曲した当時のものに近づ
けました。
大きな音量や技術を誇示するといった
見世物的な要素はまったくありません。
アバドらしい知性に裏付けられた合理
的かつ革新性をこめた選択です。
真摯に紡がれた音が歌い継がれ切
実に次の音を求めます。
アバドだけでなく、メンバーのひとりひ
とりの波動が次の波を生み、より増幅
して次に渡っていきます。
一瞬もとどまることなく流動しているの
に、どこにも力みがなく、涼やかです。
有名な第5交響曲「運命」では、もった
いぶった大げさな表情がまったくあり
ません。
今まさにここに生まれたような新鮮さと、
今ここに生きる切実さに打たれます。
「田園」と呼ばれる第6交響曲は、表題
の通り風景の描写が多くありますが、
アバドは風景を追ったり、感情を増幅
したりせず、淡々と美しく歩をすすめ
ます。
しかしその音が私たちの胸に入るとき、
音は新たな波となって内をみたし、自
然の一部となっている自身を感じます。
さり気ないのに本質を捉えて離さない、
水墨画の名画を見るようです。
私がベートーヴェンのメロディーでもっ
とも好きなのが7番の第2楽章です。
深い森をさまよい、美しいものに触れ、
不思議なものに出会うようです。
アバドの音はファンタジーそのものです。
9曲のベートーヴェンの交響曲を一気
にライブで録音する病み上がりのアバ
ドの気力に驚かされます。
アバドが求め、追及してきたものが、
病気を経て、結実しました。
「価値のあるもの、意味のあるものが
自分の内にあり、それを音楽で表現
しようとしていました。」とアバドは語っ
ています。
情熱と信念を内に秘めていました。
それが病気の後、自分への執着を捨
てて堰を切ったように一気に流れ出ま
す。
「最近気づいたのですが、多く与え
れば、得るものも大きい。
多くを学びました。
病気も悪いことだけではありません。
今は、すべてが違ってみえます。」
ベルリンフィルもともに変わりました。
独裁によって自己を隠して能率を求
めた経済的音楽から、「互いに聴きあ
う、共に音楽するという文化」に脱皮
しました。
アバドは新しい種を撒き、芽吹かせ、
花を咲かせました。
けれどそれはまた、新しい一歩の始
まりでもあります。
病と老いを超えて、探求は続きます。

分けありの食べ物たち その3 洗糖 

分けありの食べ物たち その3
洗糖
食品の害には、大きく分けて二つの
種類があります。
一つ目は余分なものがあるもの。
添加物、着色料、保存料、殺菌剤、
農薬、放射性物質などがあります。
これらは比較的わかりやすいものた
ちです。
見落とされがちなもうひとつの種類
は、本来あるべきものがない状態で
す。
野菜や食品に栄養が不足していた
り、植物繊維が足りずに腸がきちん
と働いていないなどの例があります。
そのひとつが白砂糖の害です。
糖分は、ぶどう糖などのごく一部を
除いては、身体に吸収するときにミ
ネラル分を奪っていきます。
糖分のとり過ぎによる栄養過多の他
に、ミネラルの不足も深刻な問題で
す。
カルシウムや亜鉛、鉄などのミネラ
ルは、多くはいりませんが、身体を
維持するのに欠くことのできないも
のです。
それ無しでは代謝や免疫が維持で
きません。
ミネラルが不足すると気持ちまでイ
ライラし、切れやすくなります。
江戸時代には砂糖は希少で、薬と
した使われていたほどです。
現代では簡単に多量に手に入れら
れるようになっていますが、それが
健康を害するもとになっています。
黒糖や洗糖はさうきびに本来あるミ
ネラルが豊富に残っているため、大
量にとりすぎなければ、身体に負担
をかけません。
そしてこうした健全な糖分はとても自
然で美味しく感じます。
やさしく、やわらかく、深い味わいで、
ピリピリした刺激的な要素を感じま
せん。
煮物に旨味を加え、紅茶などの風
味をひきたてます。
私たち生き物には、ミネラルが豊富
であるという事実より、美味しさを感
じる感覚の方が実は重要です。
ほとんど栄養が無いといわれていた
こんにゃくに、実は体や肌をきれい
にする栄養が含まれているとわかっ
てきました。
生で食べるとビタミンCを壊すと言わ
た人参ですが、形が変わるだけで、
体内では戻るとわかってきました。
私たちが食べて美味しいという感覚
の方が、科学より先をいっています。
ひとつの完成された命としての私た
ちは、自分に必要なものを選ぶ力を
持っています。
自分に必要なものを美味しいと感じ、
不必要なもの余分なものを不味いと
感じます。
優秀な機会でも分からない差を、私
たちは感じます。
いくら身体にいいと言われているも
のでも、自分が美味しいと感じなけ
れば、意味はありません。
知識にとらわれ、感覚を鈍らせてい
くと、私たちの命の感覚も衰え、命も
萎びていきます。
たかが砂糖なのですが、命を維持し、
育てるためにはとても大切なもので
す。
種子島の良質のさとうきびを使った
洗糖は品質の良さだけでなく、価格
の安さもうれしい、生活に取り込める
優れた調味料です。
1kgで448円、400g210円です。

アバドと静寂の音  その9「カオスとひそかな成功」  モーツァルト交響曲第36番「リンツ」

アバドと静寂の音 
その9「カオスとひそかな成功」 1994年
モーツァルト交響曲第36番「リンツ」
 べルリン・フィル

「アバドはわざとカオスを作っていたと
思います」
あるインタビューに答えたベルリンフィ
ルのメンバーの証言です。
アバドのリハーサルにオーケストラのメ
ンバーたちは戸惑いました。
言葉はあまり発せず、手と棒と目で指
示をだし、時折黙り込んで自分の世界
に入ります。
オーケストラの絶対君主である指揮者
はふつう間違いも認めず、自信たっぷ
りに振るまいます。
さらにアバドは「まわりの演奏を、よく聴
くように」とか「指示をまたないで」などと
いうのです。
前任者のカラヤンの下、独裁によって
大音量で鉄壁のアンサンブルを誇って
いたベルリンフィルにとっては考えられ
ない状況です。
混乱に包まれますが、アバドはあくまで
一糸乱れぬアンサンブルより、内省的
で微妙にうつろうひとりひとりの熱意や
ひらめきが感じられる室内楽的な音を
求めました。
当初は戸惑っていたメンバーたちです
が、世代交代による入れ替えもすすむ
うち、その意図を理解していきます。
オーケストラ内での室内楽アンサンブ
ルも増えていきました。
この「リンツ」はその成果があらわれた、
とても地味だけれど隠された成功とい
えるものでした。
第一楽章はゆったりとした序章の後、
草原を渡る風のように爽やかで、軽や
かな表情が清々しく、翼をえた感性が
羽ばたきます。
第2楽章は転調を繰り返しながら、微妙
にうつろう内面の世界が展開し、怒り
以外のあらゆる感情がたゆたいます。
スキップするような楽しい第3楽章の後、
第4楽章では優雅さと力強さが両立し
た胸のすく解放感にいたります。
アバドにとっても、ここまでやっと来たと
いう達成感があったでしょう。
天上の調べのような完全な美しさのあ
る演奏に欠点があるとしたら、人間の持
つ痛み感性のおりが感じられないこと
でしょうか。
この演奏を聴いてから過去の名演奏と
いわれているもの、例えばシューリヒト
が指揮したものを聴いてみると、とても
古く、鈍く感じてしまいます。
一見、すっきりとして穏やかに感じるア
バドの演奏には、覚醒し不純や曖昧を
許さない厳しさが潜んでいます。
その厳しさは自身にも向けられ、矛盾
や葛藤を浮き彫りにします。
音楽によって自分を主張するのとは
対照的に、自分を抑えて純粋な音楽
の美しさを求めています。
それが自己消滅という自己主張にまで
至り、指揮することさえ否定しようとして
いるようです。
すぐれた演奏であるのに多くの人の支
持をえられないのは、そうした自らまで
傷つける棘を潜ませているからでしょう。
微妙な表情を求め、力づくでの盛り上
がりに背を向けた演奏は「無気力に流
す悪い癖」「何も新しいことに取り組ま
ない」などという評価も与えられました。
モーツァルトの交響曲の録音もこの曲
で打ち切りとなりました。
無理解の中に身をおいていたのです。
私自身もこのころのアバドを、横綱相撲
をとろうとして勢いをなくしているのかと
思っていたので、世を責める資格はあ
りません。
アバドがいくら強い意志を持ち、天才
ではあっても、やはり人間です。
何度も胃潰瘍になったと、後に述べて
います。
達成感はありながらも、疲労とストレス
は蓄積していきます。
しばらくしてベルリンフィルとの契約を
延長しないという発表がありました。
それまでカラヤンやフルトヴェングラー
など前任者たちはすべて終身指揮者
で、死ぬまで責を務めました。
辞任が見つかった胃がんのためなの
か、他にやるべきことを見つけたのか
はわかりません。
そして大きな変化が訪れます。