晴屋の青い扉 その98 身体と言葉

晴屋の青い扉 その98
身体と言葉

私もいわゆる発達障害だったと
思う。
数字や言葉を覚えるのがとても
苦手で、身体になかなか沁みつ
かない。
誰にも言えず、誰からも助けられ
ずに、自分で工夫するしかなか
った。
頭の中で自分の言葉や感覚に
置き換えれば覚えることができる。
だから丸暗記や、身体で覚える
ということができずにいた。
それは今でも続いていて、言葉
でものごとを記憶するのが難しい。
テレビで見る記憶の達人たちは
言葉の連続を記憶しているよう
だ。
その感覚をまったく理解すること
ができない。
むしろ感覚をそれ自体として覚え
ている。
私には記憶とは、「あの感じ」で
しかない。
それに気づいたのはつい最近だ。
昔のことを書こうと思い立っては
じめてみると、その作業がとても
辛い。
スイッチが入ると、昔のことを次々
に思い出してしゃべる人が多いの
に、私はどうしてこうなのか。
そして、曖昧にうつろう感覚を無
理に言葉を固定して感覚を閉じ
込めようとするのが辛いのだと気
が付いた。
言葉に移すのは、私には自由を
カゴに閉じ込めることだ。
言葉をどこか軽んじて、信用しな
いでいる理由がやっと分かった。
そんな私だけれど、最近少し変
わり始めている。
切っ掛けは、俳句だ。
少し前から、内田洋子さんの文章
のすばらしさに動かされている。
内田さんが文章に開眼したのは、
俳句に親しんでからだと聴いて
興味を持ち、関連する本を読ん
でみた。
芭蕉の句に惹かれるものがあっ
たのは、何故なのか理解するこ
とができた。
「古池の」と「古池や」という一字
の違いで、世界がまったく違って
しまう。
たった十七の音にどんなイメージ
を合わせるかで、その人の持つ
精神がたち現れる。
宇宙の壮大から、日々の心の機
微まで表現できる。

荒海や佐渡によこたふ天の川
芭蕉

鰯雲人に告ぐべきことならず
楸邨

少しでも近づきたいと作句をは
じめる。
よりイメージを伝えられる言葉は
ないか。
いつも言葉を意識する。
こんなに言葉に向かいあったの
は、生まれて初めてだ。
文章が上手くなる気配は今のと
ころないが、話すのが楽になって
いるのに、ふと気がついた。
たぶんイメージと言葉の関係が
密になっているのだろう。
考える前に言葉がでてくる。
これは人間には当たり前の感覚
だ。
私たちは、言葉によって自分を
意識し、外の世界を理解している。
感じたことをそのまま言葉にする
という小さな子どもでもやってい
ることを、この歳になってできるよ
うになってきた。
なんと不器用で、奥手なことか。
それでも、自分の中に新しい感
覚が育つのは面白い。
どこまでいけるか試してみたい。
作った句は人前には出さないと
思っていたのだけれど、震災の
ことを書いたときに、ちょうど作っ
たばかりの句を載せてしまった。

泥蓮根天つ波つれてくぐれり

病床にあるお客さんが読んで、
いい句だと褒めてくれた。
人に評価されてもうれしいと思わ
ない私だけれど、素直にうれしか
った。
言葉に対する感覚が変わってく
ると、こんなことまで違いがでる
のか。
ますます忙しくなりながら、言葉
を探す楽しみは続く。

白菜の手をあわせたり朝寒し

霜柱朱に人参る土おこし

オリオンや眠れる山波きりさけり